リマインダーに、1年前の記録を引用する。学生時代にソシュールを読み、ことばのとらえ方が違うと思ったことがある。それは翻訳で、同じ訳者によって、改訳が出されて、それをまだ難解とする向きがあったのであるが、国語の考え方とは容れないところである。動態と静態の違いのようなことである。ソシュールはそれでも、静態観であるとする説明に、心理を応用する言語の分析は、動的に見えて静態を持つものと解釈できる。日本語は理論を持たずに、漢語文法を背景にしてきたから、これは、実際言語の動態でしかないような捉え方ができる。時枝学説を介して小林英夫の訳を頼りにしていたころの勉強であった。それを理論とするには、日本語を孤立言語のままとするかぎり、むずかしいことであった。漢字を文字とする、それはすなわち言葉であるとしてきた日本語の言語は、中華文明の大きな枠組みと漢字による文化を受け継いできているのである。漢字こそが言語であったのだから、その1000年以上になる漢字使用は、訓読みという日本語訳をして、音読みという借音による文字が、言葉そのものであった。 . . . 本文を読む
戦争をすることを、核の抑止力となる戦力を越えて、軍事国家の脅威と見せる。これは、爆弾を大陸弾道に載せた時点で、その核搭載のミサイルは、戦争の終焉となる。どこに、どの地域に、それが落下すれば、地球は壊れ始める。人類の生存は破滅する。その手前にある核戦争を、もはや始めてしまったのである。軍事力の発動は、瞬時に即発し、それが行われようとする時間の経過とともに、危機は確かなものになりつつある。その戦争の行方を朝鮮半島の南北境界線で見ると、朝鮮統一を果たす軍事力の争いがおこる。南北の対峙に、北に包括する統一のシナリオにはすでに現実化するための刻々を書き出している。 . . . 本文を読む
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武士の一分
2006年12月17日22:37
おのれの意地と見せた、一太刀に
目が見えなくとも
気配が見える
ともに死す
必死をもっていく
よく出来たドラマツルギーなんだが
一分がわからない
番頭も一分を立てた?
だまされての果し合い
それを間違いじゃッた、とな
あとをつけたのも、まちがい
どういう掟か
余録:師走が深まったせいでもないだろうが…
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