Q:日本語はなぜ主語を「省略」できるのか。―― 主語を省略する、という文法は、主語があるという前提である。主語を言うか、言わないか。それは文に必須の要素としてとらえるかどうかにもよる。主語述語、修飾語被修飾語、独立語を要素として文構成を説明する文法では、主語の省略をとくに説明するわけではないが、場面によって主語を言わない、とくに一人称主語を言わずにコミュニケーションをとることができるので、それをコンテクストにゆだねる言語とする説明がある。会話では話し手と相手との関係で、言葉のやり取りに、場面上わかる表現を言わずに、言葉のキャッチボールで済ませることができるし、そこにいない第三者が敬意の対象であれば敬語を用いることで人称関係を理解することができる。さらに、やりもらいとしての授受関係を動作のやり取りで表現すると、その話題になることについての人称関係も理解できる。おしえてやってもらってくれないか、という表現は、そこに居合わせた場面で理解可能な表現となる。いずれも主語を言わないで済ませることができるのであるが、日本語は、そこに短いやりとりを加えている。だれに教えるのか、だれに教えることを頼むのか、ということなどである。 . . . 本文を読む
だんぎ
【談義】
《名・ス自》物事の道理を説き聞かせること。また、その話。説教。 「長(なが)―」(長くて退屈な話)
単に、lecture
>世界大百科事典 第2版の解説
だんぎ【談義】
本来は仏法の法義を談ずることで,ディスカッションであったものが,一般民衆に説法する意味になり,法談とも文談ともよばれた。法義の論談講義の場所は談義所または檀林とよばれたが,説教談義ははじめ法会の会座でおこなわれた。法然の円頓戒談義や東大寺の法華義疏談義は,それぞれの法会にちなんだ談義であった。しかし説経が,経典の内容を説くことから興味本位の譬喩談を節をつけて語るようになったのとおなじく,談義も娯楽本位になっていった。
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Q:「日本語に主語はない」と聞いたことがありますが、本当ですか ―― 三上章学説が唱え始めた主語廃止論がある。日本語で二重主語になる構文、象は鼻が長い について、象の鼻が長い と分析し、さらに、日本語で主語となる文法現象を捉えなおした。その後に、この学説は、主語ではない、主格として、さらには主格補語として議論が受け継がれている。現代日本語文法で、文について、主語―述語 であるより、主語を補語に置き換えて、補語―述語の考え方が行われている。ネット検索をして、主語はいらないとの議論をするものがヒットし、その議論に対して多くの批判が出されている。言語の現象で何を主語とするか、それはまた、なにを文とするかの規定をめぐって、繰り返し、日本語をどうとらえるかで、定説をみない。言語に主語を見ることは、どの言語でもそうであると考えれば、その論理をどう説明するかであるし、日本語にも主語のとらえ方が可能である。文法範疇を見て主語廃止論を唱えるわけでもないから、その言語にふさわしい現象で説明できるところは、わかりよくとらえた方がよい。 . . . 本文を読む
とはいえ、メンバーに集まった人たちは、自分たちの自主的な運営による行事づくりを考えていたのだから、学会がどうだか、組織がどうだか、運営をどう、と言ったようなことには、まだまだ、なかなかならない。学部での経験は教育と研究の学科による学会活動が何であるかを知るのは、学年が進行して、すこし、その活動を知ってからのことになる。したがって、学生メンバーの話し合いは自由に行うことを基本として、スタートの場所をどう提供できるかということにあった。目前に迫ったのは学会による研究大会の開催である。何がどう進められるかがよくわからないだろうから、研究発表会とだけとらえて、教室、日程、準備などを進めた。開催をいつにするか、学科での協議があって、12月に行われることになった。学会研究大会第1回は記念すべくとどこおりなく、下役がかんじんなことであるので、準備よろしく成功したのは、学生たちの働きのたまものである。 . . . 本文を読む
聞こえにくい子供たちに言の葉を ――ともに輝きつづけるために、聾・難聴児教育の現場から―― 加藤和彦さんから、いただいた本である。タイトルに示されるように、国語科目の実践をつづっている。生徒児童は聴覚を持たない、あるいは失っって、聾教育、養護教育を受けるか、普通教育を受けている。この著作は、著者による願いである。子たちの声を聴きたい、子たちが持つ発想を知りたい、子たちが言葉を紡ぎだすのを知りたい、それを一言でとらえるのは難しいが、子たちに描画を以て、ときには略画で子たちの声を引き出そうとする試みである。しかし、声は聞こえないのであるから、その発想に触れて、その子の持つ言葉を引き出すには、その脳内言語の教育をどうすればよいかと問いかける。おそらく著者は聾者に対する言語教育の方法を自らの信念で子供の思考に寄り添うことを主張している。おそらくというのは、そうでない教育方法を批判して自らの授業を実践し続けているからである。そのそうでない教育とはどんな教育方法か、それが著者の批判する方法であるだろうが、それはこの著作には語られていない。ただし、国語教育とは何かを問い続けている。ここであえて、国語に対する批判に読者なりに感想として述べると、言語教育としての音声、文字のいっぽうを欠く児童に対する方法がないから、音声指導に準ずる形での補償教育の方法についての不完全さにある。音韻をとらえきれない教育現場である。文字は手話教育で成り立つことがある。文学教育としての学習の素養にはイメージを伴う解釈が求められて、それを得意とする教師、生徒児童はまた限られることである。くわえて、国語のしつけはアイデンティティーの確立に寄与する教育であるから、国語そのものを拒否する結果となる障碍者にはその学習が非常に困難になることである。 . . . 本文を読む
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テストと単位
2006年07月24日22:54
テスト週間が2週続く、それで試験終了後の授業期間に休む場合は届けを出すことになっている、あくまで授業期間だからだが、そこでその時間帯を授業に当てると嫌われることになる、ちょっとした矛盾だ
学期に15回の授業回数を確保するのは1時間の講義に対して2時間の予復習をすることで単位学習とし、その15回分がおこなわれて1単位認定となることを知って . . . 本文を読む
もりかけ問題というので、このまとめ方は共通項を見い出してのことかと、一瞬、思った。NP委員会の一コマ、情報に偏りがあることを指摘する場面であった。テーマのいくつかは、>ちょい見せ
「肝がヒアリとしました」・・・ヒアリ見主義?
「金塊盗むって、そりゃ正気ンカイ?」・・・で、換金カイ?
「フェイクは噂のウエ、イク?」・・・中傷はチュウいシヨウ であった。 . . . 本文を読む
アナフィラキシー反応、anaphylaxis とは、ヒトや他の哺乳類で認められる、急性の全身性かつ重度なI型アレルギー反応の一つ、と解説がある。>血小板凝固因子が全身に放出され、毛細血管拡張を引き起こすためにショックに陥る、ハチ毒・食物・薬物等が原因、蕁麻疹以外の症状 アナフィラキシーの症状としては全身性の蕁麻疹と以下のABCD(喉頭浮腫、喘鳴、ショック、下痢、腹痛)のうちどれか 代表的な症状
A(air way) 喉頭浮腫
B(breathing) 喘息
C(circulation)ショック
D(diarrhea) 下痢、腹痛 . . . 本文を読む
Q:「は」と「が」は主語を表しているのか。―― いずれも主語を表わす、表すことができる助辞である。言語の経済性から言えば、このふたつが主語を表わすことができるとすれば、いずれかは淘汰される。無駄になるだけでなく、文法に混乱が生じるからである、しかしそれは文における主語の扱いを、主語と述語の関係成立において捉える、必須主語、または主述の絶対性にある議論である。その主語と述語の議論の枠でいえば、日本語の は が にそれぞれ主語の機能を認めるのは困難である。しかし現実には議論の枠組みが主述の関係性を超えて日本語をとらえることになるので、それぞれに主語を表わしているという説明が可能である。ただ、は が ともに、主語のほかにも文における文法機能語としてのとらえ方ができるから、直ちに、は が それぞれを主語と判定するわけでもない。 . . . 本文を読む
国論2分
2017-07-23 | 日記
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国論2分が
2006年07月23日09:05
土石流と河川の氾濫による全国の死者が22人になった
オホーツク高気圧にブロックされて北へ抜けていかない
梅雨前線が南に停滞したままの大雨のキケンがまだまだ続く
犠牲になられた方々の冥福を祈る
与党の総裁選に出馬する下馬評が高まった
不出馬を決めていた人が出馬をしないと改めて伝わる
国論を2分したくないと言ったそうだが、まさしく . . . 本文を読む