ご無沙汰しております。
先生のお葉書を拝見し、感慨深くしております。
私は、二十年前から川柳に手を染め、今は函館川柳社の編集長としてマイペースで人生の余白を彩る毎日です。
時事川柳に憧れ、ペンの先に正論をかざす時もあります。
おかげさまで、北海道川柳の持続発展にも少しは貢献しております。
このような生き様に身を置かせていただいたのも、佐藤先生に連れて行っていただいた「長崎原爆病院」「長崎平和記念公園」『原爆投下の爆心地』『キリシタン弾圧のあちらこちら』
そして、長崎国体で偶然お姿を拝見できた現天皇・皇后両陛下の公務の大変さの記憶が私の原風景にも繋がっております。
当時は私たちは十七歳。
何もわからないままのボート選手。
人生の紆余曲折を経て、『日本とは?』『アメリカとは?』『戦争とは?』『政治とは?』『宗教とは?』などなどの、学生生活ではとうてい消化不良の課題に、誰でもが立ちすくむように
私も『人生の壁』に頭を打たれたこともありました。
今、先生から、以前いただいた函館尊商会への寄稿文を思い出しております。
(大西洋の波間にいのちを果てた、惨い何十万人の奴隷とされた方々の隠蔽された大悲劇。
その方々を鎮魂するために南北アメリカを巡礼縦断され先生も一部参加された貴重なお話)
もし、私が十七歳のあの時に、原爆病院の被爆者や被爆二世の方々の姿を見ていなければ自分自身が『日本語』の学問の門を叩かなかったのじゃないかとさえ思います。
今でも鮮明に残っている『十七歳のあの暑い長崎』・・・そして、今でも日本を食い物にして日本を自立させない様に『箍をはめる闇の組織』。
それは、今も奴隷時代も変わっていないように思えます。
佐藤先生も、人生の核心部分は『平和と教育』のために歩まれた人生だったと思います。
今思えば、私の17歳は幼すぎて、佐藤先生の「エスペラント語」を勉強しとけば良かったなー・・・と、反省しております。
「人生には限りがあります。私もです。けれど・・・長生きも芸のうち」だと、言います。
先生の強靭な精神と奥様の並々ならぬ深い献身が先生の肉体をここまで支えて来られたのだと推察いたします。
仲間とも今でも交流をしています。
河原さんは岩見沢で、若杉さんは手稲で、菊地さんは小樽のオタモイで、金丸さんも小樽で
皆、還暦を越えましたが、若杉さんはもとOBと二年前からボートの全国マスターズにも参加しています。
皆を誘って、初夏にはそちらへ伺いたいです。
また、お便りさせていただきます。
お逢い出来る日を楽しみにしております。
「生き抜いて無常の花を摘んでいる」・・・川柳を始め、6ヶ月目の句。
「百歳のステージひらりと鴇になる」・・・・北海道大会で特選をいただいた句。
先生!百歳まで・まだ・・ありますからね!
久保裕美子