このあたりは、水戸藩初代・徳川頼房による、上市(うわいち)の商人を、湿地を埋め立てて造成した下市(しもいち)に移す「田町越え」によって作られた一帯です。本通りの本町(ほんちょう)には、東西に本一丁目、裡一丁目といった町名が付いています。南北にはこうした職業的名称が付けられたのでしょう。地図の数字は旧町名の碑がある場所です。外に、塩町の北方に白金町が、銷魂橋を渡った備前堀の南側には紺屋町があります。
江戸町(えどちょう)①
魚類を江戸に送り出す商人の居住した町で、初めは江戸肴町といわれたそうです。6代徳川治保(はるもり)の時代、「江戸仕掛」という経済振興策の一環で、芝居の興行などが行われたそうです。
檜物町(ひものちょう)②
桶、指物(さしもの)、駕籠(かご)などを作る職人が多く住んだ町だそうです。藩の御用達職人である、弓、矢、鉄砲の職人もいたそうです。
肴町(さかなまち)③
藩の初め頃は藩内でとれた魚はここの問屋に集められて、藩に納入され、その残りが魚商人に販売されたそうですが、だんだん自由販売に近いかたちになっていったようです。
青物町(あおものちょう)④
元は紙町といわれたそうですが、文化元年(1804)に八百屋が多かったので、青物町と改められたそうです。
塩町(しおちょう)⑤
御塩屋・四郎左衛門等の塩問屋があったので名づけられたそうです。
材木町(ざいもくちょう)⑥
材木を扱う商人が多く、藩でも竹木、挽臼、桶類の独占販売を許可したそうです。財政の厳しかった藩は、この業種ばかりでなく、特権を与える代償として税収をねらったのでしょう。