徳川斉昭による、尊皇思想による仏教排斥と、攘夷を実行をするため濡仏等を鋳つぶして銃砲製作をしたりした、改革政策実施による寺への影響の一部です。多くは、規模が大きく縮小したり、なくなったりしているようです。
円通寺(千波町1227)
斉昭の改革の際に廃寺となり、一時、家老職の鈴木石見守に跡地が与えられたそうです。よく今のような大刹に復興したものと感心します。
宝鏡院不動堂(城東1-11)
斉昭の天保の改革で処分され、寺宝は神崎寺(かみさきじ)へ移されたそうです。宝鏡院門前という地名が残ったようですが、それもなくなってしまいました。名残の不動堂があります。
羅漢寺(谷田町あたり)
明和7年(1770)に竣工した「水戸城眼下に」見おろす大寺だったそうですが、斉昭の改革期(1830-40)にはすでに老朽化しており、「大破」ということで「人夫百余名をして一時に破壊」されて廃寺になったそうです。その遺物がわずかに宝蔵寺に残っています。写真は水戸綺談にあるものです。
妙雲寺(見川2-103-1)
天保13年(1842)、梵鐘等の供出をこばんだため、名目は「破戒不如法」ということで、土地を没収され、その跡地の大部分が武田耕雲斎に屋敷地として与えられたそうです。さらに、嘉永5年(1852)、幕末の騒乱の際、焼き討ちにあって焼失したそうです。
吉沼観世音跡
ここは徳川光圀の改革で廃寺になり、その後、川崎から観音寺が移されたそうですが、斉昭の時代には坊さんがいなくなっていたようで、「不如法無住}という名目で廃寺となっています。跡地は西郷監物に与えられたそうです。
常照寺
ここも処分されて下古内の清音寺へ寄寺(合併)となり、山野辺兵庫頭に跡地が与えられたそうです。ここはかつて、大掾(だいじょう)氏の一族、吉田氏や、その後は佐竹氏の臣、車丹波守の居城になった地だそうです。