田植え歌御名号碑(真仏寺 飯富町3427)
五劫思惟(ごこうしゅい)の苗代(なわしろ)に
五劫思惟(ごこうしゅい)の苗代(なわしろ)に
兆載永劫(ちょうさいようごう)の代(しろ)をして
一念帰命(きみょう)の種をおろし
自力雑行(じりきぞうぎょう)の草をとり
念々相続の水を流し
往生の秋になりぬれば
この実とるこそ嬉しけれ
建保6年(1218)に、真仏寺の開基・大部平太郎(真仏)が親鸞を招いて百日の説法を行ったとき、田植えの季節のために、だれも来なかったそうです。そこで親鸞は自ら田にはいって田植えを手伝いながら、この歌で稲の田植えから収穫までに例えて仏の道を説いたそうです。碑の通りに書きましたが、歌や読み方が違うものもあるようです。
一念帰命(きみょう)の種をおろし
自力雑行(じりきぞうぎょう)の草をとり
念々相続の水を流し
往生の秋になりぬれば
この実とるこそ嬉しけれ
建保6年(1218)に、真仏寺の開基・大部平太郎(真仏)が親鸞を招いて百日の説法を行ったとき、田植えの季節のために、だれも来なかったそうです。そこで親鸞は自ら田にはいって田植えを手伝いながら、この歌で稲の田植えから収穫までに例えて仏の道を説いたそうです。碑の通りに書きましたが、歌や読み方が違うものもあるようです。
光圀詩碑(祇園寺 八幡町11-69)
恭詣越師墳墓前(つつしんで心越師の墳墓の前にもうでて)
叫天打地欲驚眠(天に叫び地を打って師の眠りをおどろかさんと欲す)
一朝挑起法灯火(一朝法灯の火をかかげて)
照破東方万八千(師は東方日本の四方八方を照らしてくれた)
心越をいたむ詩です。勝手な解釈の読み方ですが、違っていたら申しわけありません。
恭詣越師墳墓前(つつしんで心越師の墳墓の前にもうでて)
叫天打地欲驚眠(天に叫び地を打って師の眠りをおどろかさんと欲す)
一朝挑起法灯火(一朝法灯の火をかかげて)
照破東方万八千(師は東方日本の四方八方を照らしてくれた)
心越をいたむ詩です。勝手な解釈の読み方ですが、違っていたら申しわけありません。
徳川吉子和歌碑(弘道館 三の丸1-6-29)
天さかるひなにはあれどさくら花 雲のうへまで さき匂はなむ
徳川斉昭の妻・吉子が嫁入りのときに持ちきたった桜のひともとを弘道館の吏員・小沢敏行が自宅で育てて花を咲かせたので、それを愛でて吉子が詠んだ歌だそうです。
天さかるひなにはあれどさくら花 雲のうへまで さき匂はなむ
徳川斉昭の妻・吉子が嫁入りのときに持ちきたった桜のひともとを弘道館の吏員・小沢敏行が自宅で育てて花を咲かせたので、それを愛でて吉子が詠んだ歌だそうです。
宮沢賢治碑(蓮乗寺 元吉田町2705)
雨ニモマケズの歌碑です。宮沢賢治は日蓮宗の信者だったので、同じ日蓮宗の蓮乗寺が、その縁もあって建てたのでしょう。
雨ニモマケズの歌碑です。宮沢賢治は日蓮宗の信者だったので、同じ日蓮宗の蓮乗寺が、その縁もあって建てたのでしょう。
石鼎句(光台寺 上水戸3-1-39)
この碑建つ 折しも花の頃なりし
墓の裏側に刻まれた原石鼎の句です。この墓の故人は、石鼎の主催した鹿火屋(かびや)の同人だったそうです。
この碑建つ 折しも花の頃なりし
墓の裏側に刻まれた原石鼎の句です。この墓の故人は、石鼎の主催した鹿火屋(かびや)の同人だったそうです。