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水戸の酒の話(27)

2024-02-04 20:54:55 | 水戸

 文政6年(1823)に、会瀬浜(おうせはま 現・日立市会瀬町)の漁師・忠五郎は、沖にきている異国船に、舟をこぎ寄せたところ、甲板にあげてもらえ、酒食の饗応を受けたそうです。警戒心を解いた忠五郎は、その後再び異国船に行き、3日間捕鯨の仕事を手伝ったり、船長から酒と菓子をもらったりしたそうです。そのことが役人の耳にはいり、忠五郎は郡奉行所に引き立てられたそうです。その翌年に、大津浜(現・北茨城市大津町)での夷人上陸事件が起こるのだそうです。写真は嘉永6年(1853)に江戸湾に来航した黒船の図だそうです。水戸市立博物館で見ました。

 

 徳川斉昭が青山延光(のぶみつ)宛に書いた手紙だそうです。「豊田天功は牛乳が好きなのでつかわしていたが、伜(せがれ 小太郎)の話では、酒を多く飲んでしかも歩かないようで、それではよいよい病になる」とか、「ウニを贈るが、一つは会沢正志斎へ渡すように、会沢は養生家だが、延光はウニで飲みすぎないように養生するよう」などといったことが書いているそうです。酒飲みの多い水戸藩で、下戸の斉昭ならではの心配のようです。写真は、現在新荘小学校になっている豊田天功屋敷の跡です。

 

 「ちょっと耳に入れるが、藩医に聞いたところによると、近く江戸へ回ってくる酒は、石灰が多く入っていて、あまり飲むと脾臓を悪くして中風の気がある者は発病するとのことなので用心してほしい。お前が病身になったら困ってしまう」といった、斉昭が藤田東湖宛に書いた手紙があるそうです。酸っぱい酒を石灰で中和していたのでしょうか。

 

 斉昭の死後、城中にいた斉昭の正室・吉子は、諸生派の巨頭だった鈴木石見守(いわみのかみ)が、酒宴を開いて吉子の歓心をかおうとしたそうですが、悪党の宴には参加しないと、激しい言葉で拒否したそうです。吉子はそうとう強い性格の女性だったようです。写真は、明治22年に徳川昭武邸で撮影された吉子晩年の姿だそうです。弘道館にありました。

 

 「ここは手っ首 手ーのひら ありゃりゃに こーりゃりゃ 背高ぼーずに 医者ぼーず お酒わかしのかんたろさん」という、指遊び童唄が水戸にあったそうです。いまこの歌を経験した人はいるのでしょうか。

水戸の酒の話(26)

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