江戸時代は、城下防備のために、橋の建築がかなり厳しく制限されたそうで、道路の交通には面倒が多かったようです。それだけに、河川を使った舟での運搬が発達したともいえるのでしょう。水戸も、那珂川、涸沼川等の河川は便利なために、荷を積み卸しするいわゆる河岸(かし)が多く作られたようです。渡しも、相当の数があったようです。
国田の渡しの碑
那珂川に架かる国田大橋左岸の下流側にある最初の送電線鉄塔の下あたり
飯富町と国田を結ぶ渡しです。享保3年(1718)の規定では通常時で1人2文だったそうです。悪天候時は高くなったそうですから、面倒なシステムだったようです。
青柳の渡し碑
那珂川万代橋左岸下流200mくらい
青柳と対岸の風呂下などを結ぶ渡しだったそうです。すぐ近くに青柳夜雨の水戸八景碑もあり、景色のよい地だったようです。
新舟渡の跡碑
城東5丁目の城東市民運動場へ入る当たりの堤下
今より上流にあった渡しが、徳川頼房時代に埋め立てで下市本町ができた時、今の碑のあたりに移されて、新舟渡とよばれるようになったのだそうです。水戸街道の北にのびる岩城街道(陸前浜街道)の渡しだそうです。すぐ近くに蔵前、蔵脇という旧地名もあり、藩の雑穀蔵があったそうです。
一文舟渡し跡碑
川又町638の向かい
ひいおじいさんが船頭をやっていたという人が、船頭は7人いた、すぐ上流にも渡しがあったという話をしていました。一文(おおざっぱに1両を10万円とすると1文は25円ですから、何十円という感じだったのでしょう)で渡れたことからつけられたのでしょうが、そうすると(比較の時期が違うでしょうが)、国田の渡しよりは安かったのでしょうか。
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