佐竹義宣(よしのぶ)により現・栄町(並松町)に建てられ、徳川光圀によって現在地に移されたという光台寺にある墓のいくつかです。
吉弘菊潭(きくたん)
周防出身で、徳川光圀に仕え、元禄1年(1688)に佐々宗淳(さっさむねきよ 助さんのモデル)とともに彰考館総裁になり、元禄7年(1694)に52歳で死去したそうです。
甚内
奥山という水戸藩士の召使いだった甚内が、主人父子の死去でお家断絶になった主家の菩提を弔って剃髪して、義運という僧となり、天明2年(1782)に奥山の菩提寺・光台寺へ2尺くらいの唐銅地蔵を奉納したそうです。甚内は寛政1年(1789)に死去したそうです。地蔵は徳川斉昭の天保の改革でなくなったそうですが、義僕であった僧として、現在光台寺の住職墓地に葬られているようです。
富田長洲
宝暦年間(1751-1764)に彰考館総裁になった水戸藩士で、寛政6年(1794)に77歳で死去したそうです。
高倉逸斎
代官方(だいかんかた)、郡方(こおりかた)から与力になった水戸藩士だそうですが、博覧強記で、「水府地理温故録」や「西山遺事」など、多くの著作をのこし、天保2年(1831)に88歳で死去したそうです。
岡部三十郎
桜田門外の変で、見届け役をつとめ、京都で挙兵するために上京したものの果たせず、江戸で捕らえられて文久1年(1861)に44歳で斬罪になったそうです。
長谷善四郎
水戸藩の御用鋳物師だったそうですが、斉昭の時代、攘夷をおこなうための太極砲などの大砲製作にもたずさわったそうです。明治35年に死去したそうです。
菊池幽芳
水戸出身の渡辺治が社長だった大阪毎日新聞に勤め、新聞小説として「己(おの)が罪」という当時のベストセラーなどを発表したそうです。昭和22年に78歳で死去したそうです。
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