弘道館に飾ってある徳川斉昭の書体が分かる扇面です。「弘道館の梅をよめる 斉昭 葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国の外までも にほひ(におい)伝えよ梅の華園(はなぞの)」と書いてあるそうです。
領内巡視で、成沢村の庄屋で加倉井砂山の叔父・加倉井兵左衛門を訪ねたとき、水戸家から預かっていた蜜蜂の蜜がさしだされたそうです。斉昭は扇に「頼みおきて今日をはつにぞ蜜蜂の さしもしらじなかくあらんとは」(頼んで置いた蜂蜜を今日初めて味わった、このようにうまいものであろうと皆は知らないであろう、といった感じなのでしょう)と書き残したそうです。
子宝には恵まれ、22男、15女だったそうです。そしてその母となった女性は10人だそうです。子供のうちには、慶篤(よしあつ、10代水戸藩主)、池田慶徳(よしのり、5男、鳥取藩12代藩主)、慶喜(7男、15代将軍)、松平直侯(なおよし、8男、川越藩6代藩主)、池田茂政(もちまさ、9男、池田藩9代藩主)、「万博の殿様」昭武(あきたけ、18男、水戸藩11代藩主)などがいたそうです。
斉昭には、藤田東湖を筆頭に酒豪の家臣がたくさんそろっていたようですが、ご本人はまったく酒を飲まなかったそうです。東湖が斉昭に色事はほどほどにと諌言したところ、斉昭から酒が過ぎるので減らせといわれて参ってしまったという話があるそうですが、斉昭がまったくの下戸であるということならなお面白くなります。
天保年間(1831-1845)に、庄内藩が長岡に国替えされそうになる事件があったそうです。それに反対する庄内の百姓たちが斉昭を頼って水戸に訴えに来たそうです。建前上は宿屋からすぐ立ち退かせる通達などを出したり、百姓の意見を幕府に取り次ぐことはしなかったそうですが、陰では物心両面の援助をして、結果的には国替えは実現しなかったそうです。
嘉永5年(1852)に志・表(政治中心の流れ以外の、礼・楽・天文・地理などの事項や年表など)を除いて完成した大日本史を朝廷に献上したそうですが、その数ヶ月後には、直径約1mの地球儀も献上しているそうです。同じ攘夷にしても、広い目をもってほしいという意味合いがあったようです。
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