ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の市指定文化財(史跡)(1)

2020-01-15 19:37:03 | 水戸

義公生誕の地(黄門神社:三の丸2-2-29  管理:常磐神社)
 徳川光圀は、水戸藩の家老・三木之次(ゆきつぐ)の屋敷で寛永5年(1628)に生まれ、之次、武佐(むさ)夫妻によって5歳まで育てられたそうで、水戸で生まれたただ一人の水戸藩主だそうです。屋敷の地は黄門神社から南の常磐線敷地内にひろがっていたそうです。後年この地を訪ねた光圀は、母の久子(久昌院)が植えたという梅(誕生梅)の花を見て、「朽ち残る老木(おいき)の梅も此(この)宿のはる(春)に二たひあふそ嬉(うれ)しき」(境内歌碑)という歌を詠んだそうです。

 

 

藤田東湖生誕の地(銅像、碑:梅香1-1-8  管理: 水戸市)
  父・幽谷はすぐ近くの坂道にあった古着屋の子として生まれたそうですが、とりたてられて、大日本史の編纂する彰考館に勤めるようになり、写真の地に屋敷を持ったそうです。ここで東湖は文化3年(1806)に生まれたそうです。東湖は、学者であると共に、藩主・斉昭のブレーンとして活躍したそうですが、斉昭の浮沈と共に変化の多い生涯を送り、安政の地震で江戸で死去したそうです。回天詩史、常陸帯(ひたちおび)、弘道館記述義などの代表作は、幽閉・蟄居の期間中に書かれたものだそうです。

 

 

常磐共有墓地(松本町13-34 管理:常磐共有墓地管理委員会)
 宗教改革の一環として、光圀は簡素な葬祭儀礼を藩士にすすめ、寛文6年(1666)に常磐(ときわ)村と酒門(さかど)村に墓地を与えたそうです。仏式を排して、宋の朱子が定めた儒の礼式を参考にした「葬祭儀略」を配布して、原則として墓は身分に関係なく方1間としたり、戒名を記すのを禁じたりしたそうです。仏式の院号などの刻まれた墓に慣れた人には「故老牛居士安積君墓」(写真の安積澹泊(あさかたんぱく)の墓)といった書き方はめずらしく感じられるでしょう。安積澹泊、藤田幽谷・東湖父子等多くの藩士が葬られているそうです。

 

 

水戸殉難志士の墓(松本町13-34 管理:水戸殉難志士の墓保存会)
 「元治甲子の乱」や「桜田門外の変」など幕末の騒乱で命を落とした勤王側の志士をまつる、はじめ明治3年に建てられたという多くの墓が、2か所に分かれてずらりと並んでいます。また、安政の大獄以後の殉難者もあわせてまつった昭和44年建立の回天神社もあります。多くの有能な人々が幕末から明治初期の騒乱の中で命を落としていったことが、明治以降の水戸の歴史にあまりよくない影響をもたらしたことはあるのでしょう。写真は2号墓地です。

 

 

会沢正志斎の墓(千波町2367 管理:本法寺)
 藤田幽谷の弟子となり、彰考館で大日本史の編纂にたずさわり、その総裁になったり、斉昭の行った天保の改革にも尽力したそうです。異人上陸事件などをきっかけに書かれた「新論」は、危険書物として版行されなかったそうですが、筆写されて全国にひろがり、尊皇攘夷のバイブルとなり、幕末の歴史を動かす力の一つになったそうです。吉田松陰、真木和泉など多くの尊皇の志士が訪ねてきたり、会沢が開いた南街塾の塾生になったりしたそうです。その後は「時務策」を書いて開国の必要を説いたそうですが、水戸では受け入れられなかったようです。「時務策」を書いた翌年の文久3年(1863)に死去したそうです。

 

 

武田耕雲斎の墓(見川町103 管理:妙雲寺)
 斉昭の改革に加わっていた改革派の重臣で、執政(家老)にもなったそうです。その後、筑波で挙兵した藤田小四郎らの天狗党に参加して、その総大将となり、将軍・徳川慶喜に心情を伝えようと西上したそうですが、敦賀で投降し、元治2年(1865)に刑死したそうです。辞世歌の一つに「討つもはた 討たれるもはた 哀れなり 同じ日本の乱れとおもえば」があるそうです。写真左は妻延子の墓です。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水戸の女人講中 石像(10) | トップ | 水戸の方言(9) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

水戸」カテゴリの最新記事