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水戸の私塾

2018-12-10 20:13:36 | 水戸

 

青藍舎(梅香1-1-8あたり 藤田東湖誕生の地と表示されています) 藤田幽谷、東湖父子
 享和2年(1802)に幽谷が梅香の自宅で始めたそうです。江戸と水戸を何度も転勤する生活の中での塾の運営だったそうです。文政9年(10826)に幽谷が没すると、子の東湖が塾を受け継いだそうです。東湖は徳川斉昭を補佐していて、藩の要職を勤めていましたが、幕府による斉昭処分に連座して蟄居したりして塾は20年くらい中断したそうです。その間、僅かな人数ながら入門を許された若者も居たそうです。年齢で分けた門弟2組に、それぞれ月3回の会読が行われたそうです。東湖の妹・嘉能子が世話をした女塾もあったそうです。塾生には、会沢正志斎、石河明善などがいたそうです。

 

日新塾(成沢町) 加倉井砂山
 始め父親の運営してていた塾を手伝っていて、文政3年(1805)16歳で家督を継ぎ、20歳頃から塾の責任を負う立場になったそうです。その後塾生が増えて、三楽楼や日新舎などの校舎や寄宿舎が建てられたそうです。会沢の南崖塾と同様、正式な名前がなかったようで、日新舎の名前から、日新塾と呼ばれたようです。教育科目の種類は広く、窮理(物理)や兵学などもあり、水戸では一番の、学校の体裁をもった塾だったようです。30年間に及ぶ長期間運営されたそうです。塾生には、藤田小四郎、斉藤監物、鯉淵要人、川崎守安、香川敬三などがいたそうです。

 

南街塾(南町3-4-10あたり)  会沢正志斎
 天保2年(1831)に南町に住むようになったそうですが、藩内外から正志斎を慕う多くの若者が塾に入門し、南街塾と呼ばれたそうです。南街塾は通称で、塾には正式な名前はなかったようです。会沢正志斎は彰考館総裁をつとめたり、尊王攘夷運動の指針となった「新論」を著したりして、名前が藩外の志士たちにも広く知られていたそうです。文政3年(1820)に江戸勤めから戻って以来、私塾を開いていたそうです。南街塾では月3日講義が行われ、夏期は休講で、12月15日には年納めの宴が開かれたそうです。塾生には、真木和泉、安達清風などがいるそうです。

 

輔仁(ほにん)学舎(梅香) 栗田寛
 明治13年、大坂町に居住してから開塾したそうです。水戸学の後継を育てたかったようです。講義日は月2日、10時から22時までの集中方式で、その他の日は塾生同士で学びあうという形式で、寄宿舎もあったそうです。菊池謙二郎、栗田勤(いそし)、清水正健などの塾生がいたそうです。


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