好文亭をいつもより細かく眺めてみました。すると、今まで気がつかなかったことを少しばかりですが、見ることができました。
竹垣の覗き穴
板戸の引手がのぞき窓になっていることは有名です。一般には言われていないようですが、竹垣にものぞき穴があったようにみえます。板戸引手ののぞき窓は、茶室方向を見たようですが、竹垣の穴は、3Fの楽寿楼への階段方向を覗いたように見えます。茶室方向も見えたかもしれません。ただし、今の好文亭は復元なので、竹垣の穴はもともとあったのかは分かりません。ただ、竹垣の裏側は台所なので、十分に可能性はあると思います。写真の左側は、3F楽寿楼に上がる階段です。
梅の間(移築部分) 菊の間(本来の部分)
障子の違い
奥殿で、梅の間、竹の間、清(せい)の間は、明治2年に徳川斉昭の正室・吉子居住のために、移転・増築されたそうです。よく見ると、確かに奥殿にある外の部屋とは障子が違っているようです。障子の下の部分が、移築部分以外は、2本と3本の縦桟(たてさん)が入っています(写真は菊の間)が、移築部分は、平行な縦桟(写真は梅の間)が並んでいます。きっとよく見るとまだほかにも、違っている部分があることでしょう。障子下にある縦桟の形は、奥殿のみのことで、広縁の方は違います。
階段脇にある物入れ
3F楽寿楼へ上がる階段は、物入れのある、いわゆる箱階段のようになっていて、これも変わっていますが、階段をあがる壁側にもなぜか物入れが作られています。階段の物入れには墨絵が描かれているようですが、壁側に絵は見えません。1Fでは、養老会や、詩会などが行われたようですが、3Fの楽寿楼は、厳しく管理されていたようです。主に上級武士がのぼるようなところに、なぜ、こうしたものが作られたのかなと不思議に思います。写真左下側は、戸に墨絵が描かれた物入れです。
昇降箱の中
日本で最初のエレベーターと言われる、食事を楽寿楼に上げる運搬具の内部です。全体を細い障子の桟のような物で枠を作って、障子紙を張っていますので、持ちあげる中央上の木片部分を補強するためなのでしょう、写真のように箱内に四方に広げた竹が入っていました。
網代戸
好文亭の御座の間(藩主の間)にある引き戸には、表裏に籠目編みした竹、それに挟まれて薄い布が張られているそうで、藩主が中から塗縁の様子を見ることができるようになっていたそうです。写真のように、確かに、戸を通して外側が見えることを確認しました。でも、逆に広縁側からも藩主の様子が見えるということなのでしょう。もっとも、御座の間の方が暗かったでしょうから、塗縁からは見えにくかったでしょうが。
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