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水戸の酒の話(10)

2020-01-19 19:08:32 | 水戸

 

髑髏盃(どくろはい)
 徳川光圀は、子供の時に肝を試すために夜、罪人の首を取りに行かされたそうですが、その罪人とは、出奔して能役者になり、江戸・小石川の屋敷へ来て捕らえられた、長野九十郎という人だったそうです。頼房は、その髑髏で盃を作ったそうです。家臣が、能役者は長野であることを告げたのに、はじめ頼房は知らぬふりをしていたそうですから、盃にしたということは一種の「愛情表現」だったのでしょう。

 

道明作兵衛
 本一丁目に紀州出身の道明作兵衛が営んだ、3,000石を醸したという酒屋があったそうです。入口には長屋門があって、門の冠木の上には木彫りの猩々(しょうじょう)が置かれていたそうです。その後、商売は他の人の手に移ったそうですが、明和3年(1766)の火事で残っていた猩々は焼けてしまったそうです。備前堀にかかる道明橋は、紺屋町先にある自分の田んぼに行くために架けられたものだそうです。写真は道明橋です。

 

正気の歌
 徳川斉昭が幕府によって処分されたことによって、水戸藩小梅屋敷に蟄居させられた藤田東湖は、1月に1両しか収入がないために、ふだんは酒を十日で一升飲んでいたそうです。しかしある一夕、その十日分の酒を一盃一筆で飲みほしながら書き上げたのが、「天地正大氣(てんちにせいだいのき) 粋然鍾神州(すいぜんとしてしんしゅうにあつまる)」ではじまる「文天祥(ぶんてんしょう 南宋の政治家)正気の歌に和す」と題された、「正気の歌」だそうです。

 

お返し下さるべく
 藤田東湖が横井小楠に送った手紙の中に、酔いにまかせて詩を書いたが、内容をよく憶えていない、過激なことなど書いたのではと不安であるのでひとまずお返し願いたいとして、さらに「必ずお秘しくだされ、遠からずお返し下さるべく、千万これ祈る」と繰り返し頼んでいます。

 

賜雁の儀
 弘道館開校記念日には、「賜雁(しがん)の儀」が行われたそうです。藩主みずからとらえた雁が、使者によって届けられ、包丁頭(がしら)が礼服でその料理式を行ったそうです。その後、先生達が弘道館記等を講演して、それが済むと、雁の羹(あつもの)と酒が参加者に出されたそうです。

水戸の酒の話(9)


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