加倉井館(妙徳寺 加倉井町909)
写真右斜めにあるのは、現在、妙徳寺山門の前にのびる用水路ですが、これはかつての加倉井館をかこむ堀の南方の一部のようです。寺の背後もそうですが、堀跡と土塁跡が、しろうとが見てもよくわかる遺蹟です。現在の妙徳寺の寺域を中心に、東西220m、南北110mが加倉井館の敷地だったようです。写真左上にあるのが妙徳寺山門です。
河和田城(報仏寺 河和田町887)
山門近くに大手口があったようです。その遺構である土塁と空堀が道路の面して残っています。河和田城は天徳寺や八坂神社も含んだ、かなり規模の大きな平山城だったようです。写真は、山門向かって右側の堀跡です。
長者山(渡里町)
古くから館があったようですが、15~16世紀に、江戸氏の家臣だった春秋(はるあき)氏によって現在の土塁や堀が築かれたそうです。ここでは11の郭(くるわ)跡が確認されているそうです。写真で見てもわかるように、かなり大規模な堀跡です。
勘十郎堀(城東2あたり)
茨城町の紅葉運河などの有名な勘十郎堀ばかりではなく、現在の城東小学校近くの北側で那珂川に合流していた桜川に、松波勘十郎によって、渋田沼とその桜川の西側をつないで開削された堀も、勘十郎堀というそうです。今の㈱トッパンの社内から、城東小学校の南側あたりを流れていたようです。那珂川からの荷物を陸揚げするために掘られたようです。
常照寺(元吉田町2723)
大掾(だいじょう)氏一族の吉田氏によって、段々拡張されて連郭式になった城の跡だそうです。当時は南側が大手口だったようです。そのあたりに堀の遺構が残っています。今の寺域に入る山門からの参道沿いにも堀らしい遺構が見られます。写真は、寺南側から見て左側の堀跡ですが、けっこうな深さがあります。
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