ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

徳川斉昭の改革余波を受けた寺(2)

2017-05-16 21:30:29 | 水戸

 斉昭の仏教嫌いは相当だったようで、その天保の改革の過程で、秘仏を逆さづりにしても霊験がなかったということで、金箔を剥いで燃してしまったなどということを書いたものもあるそうです。地名に「寺」を含んだ地名も、改めたりしたそうです。一方、東照宮にある頼房寄贈の灯籠は、役人が仏具と見なして処分しようとしたところ、斉昭の判断で残されたそうです。

 

江林寺(墓地 松本町9-6)
 僧は追放となり、寺は破却されたそうです。現在は墓地だけが残り、祇園寺の管理になっているそうです。寺の跡地は臣下に与えられたそうです。

 

神応寺(元山町1-2-64)
 神仏混淆で一緒に祀られていた雷神(別雷皇太神)を移そうとしていたところ、毎日火の玉が寺から出てくるということで、雷神だけは残され、神応寺だけが他の寺に合併させられたそうです。

 

本法寺(千波町2367)
  天保14年(1843)に稲木村・久昌寺(旧・久昌寺)へ合併され、建物は神崎鋳砲所の燃料になったそうです。明治44年に本堂が復興するまでは墓だけだったそうです。今の建物はその後に建てられたそうですが、仮堂だそうです。

 

清巌寺(元吉田町3240)
 下岩瀬村(現・常陸大宮市)の誕生寺へ合併されたそうです。弘化元年(1844)に再建されたそうです。

 

薬王院
 当時上野・寛永寺の配下だったという薬王院は、金仏や鐘の供出を待ってくれという交渉をしたものの、そういう大切なものは上野へ持って行き、寺を出て行ってくれといわれ、かえって、寄進されていた田畑などを没収されたそうです。以後寺僧を置かないという処分(永無住)になったそうです。

 徳川斉昭の改革余波を受けた寺(1)

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水戸の古木(4)

2017-05-15 21:53:17 | 水戸

 年数は市の建てた保存樹表示に記された数字です。

 

シイ(大場町 個人宅) 300年
 個人宅の入口付近にあり、恵比寿大黒の面が根元に飾られていました。

 

スギ(鹿島香取神社 小泉町) 300年
 この神社には、樹齢300年のスギが2本ありました。

 

タブ(香取神社 大串町496) 300年
 この外に、シイで樹齢300年が2本、200年が1本あります。

 

ケヤキ(芳賀神社 栗崎町1677) 200年
 この神社は石段脇にわき水があったり、拝殿・本殿の彫刻が少し変わっていたり、境内社それぞれに神社名が表示されていたりしています。

 

ニセアカイア(ハリエンジュ 偕楽園東入口 常磐町1-3-3) 100年以上
 ニセアカシアは明治初めに渡来したそうで、あまり古いものはないようですが、これは、大木になっていて国内では最大級のようです。ちょうど花が園内側に多く咲いていましたが、よく見えなくて残念です。

水戸の古木(3)

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水戸の〇(4)

2017-05-14 20:41:02 | 水戸

ツタバウンラン(白梅)
 オオバコ科のいわゆる侵入植物だそうで、大正時代に園芸植物として日本にはいってきて、九州以外の地域に繁殖しているようです。

 

   

日輪宿舎(内原町1497-16)
 内原郷土史義勇軍資料館の裏に復元されています。満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の宿舎と教室を兼ねた施設として100棟ぐらい建てられたそうです。同様の建物は内原だけでなく各地にあったそうです。

 

   

常磐小学校(西原1-3-12)
 校舎全体は四角形になっていますが、中庭と校舎内側が丸くなっています。グーグルマップの航空写真で見るとよくわかります。校章になっているスギの根元付近はビオトープになっています。

 

   

鋳鉄管(田野町1662-14)
 楮川(こうぞがわ)ダムのある、楮川浄水場の屋外に展示されている水道の鋳鉄(ちゅうてつ)管です。地震に強いといわれていたそうですが、東日本大震災では被害が出たそうです。水戸で一番太い鋳鉄水道管は口径1.1mだそうです。

 

   

居酒屋まる(末広町3-2-35) 
 桂岸寺門前にある、炭火焼き肉の居酒屋です。

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水戸の先人

2017-05-13 22:20:02 | 水戸


 こういう人々をもっと水戸の人たちは思い出す必要があるような気がします。(写真は井坂幹、直幹父子の寄贈して3・15震災で倒壊した渋井町鹿島神社鳥居の名残です)

阪場志業(むねなり 天保4年1833-明治44年1911)
 徳川斉昭のひらいた製砲所と射撃場だった神勢館で、鉄砲製造の鉄砲師となり、斉昭から脇差銃(わきざしじゅう)の製造を命じられて、それをつくりあげて献上したそうです。明治16年から猟銃の製造をはじめて、阪場銃砲器(SKB)の基礎を築いたそうです。

石河幹明(安政6年1859-昭和18年1943)
 師範学校予備科から福沢諭吉同郷の校長・松木直己の紹介で慶応義塾に進み、福沢が創刊した時事新報社へはいり、福沢諭吉の語りを社説とする社説記者(中上川彦次郎が最初で、渡辺治、高橋義雄もなったそうです)となり、主筆となり、福沢諭吉伝を執筆したそうです。

高橋義雄(文久元年1861-昭和12年1935)
 師範学校予備科から校長・松木直己の紹介で慶応義塾へ入学し、その後、時事新報記者を経て、欧米を遊学して、明治24年大卒者として初めて三井へ入社したそうです。三井呉服店を日本初のデパート三越につくりかえて近代化をはかり、三井の中で重きをなしたそうです。引退後は、箒庵という号で茶を楽しんだそうです。

井坂直幹(なおもと  万延元年1860-大正10年1921)
 井坂幹の長男で、彰考館で大日本史編纂に参画し、その後、松木直己の紹介で慶応義塾に入り、時事新報社を経て、大倉組に入り、製材担当をしたそうです。独立して東洋一といわれた秋田木材という製材会社を創立し、能代の発展に尽くしたそうです。

井坂孝 (明治2年1870- 昭和24年1949)
 井坂幹の三男で、明治21年に茨城県尋常中学校(現水戸一高)を出て、東京帝国大学に入り、卒業後、東洋汽船に入社し、その後、横浜商工会議所会頭などをつとめ、関東大震災後の横浜復興に尽くしたそうです。日本経済連盟会長、枢密顧問官にもなったそうです。

渡辺治(元治元年1864-明治26年1893)
 石川と同様、松木校長の紹介で福沢諭吉の慶應義塾へ入り、卒業して、時事新報社に入社したそうです。その後、請われて大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)社に入社して主筆から社長になり、現在の新聞スタイルの源流になるような改革をおこなったそうです。社長のまま、第1回衆議院議員選挙に当選したものの、29歳で死去したそうです。

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水戸市植物公園の春の花(3)

2017-05-12 22:18:28 | 水戸

 春というより初夏の花なのかも知れません。

 

イカリソウ(メギ科)
  花が錨(いかり)の形に似ているので名前がついたようです。花はかなり長く咲いているようです。

 

ウスバサイシン(ウマノスズクサ科)
  葉が薄くて辛い(細辛 サイシン)ということからの名前のようです。葉の下に咲く目立たない花です。ミツバアオイも同じ科だそうです。

 

オオデマリ(レンプクソウ科)
  ヤブデマリの園芸品種で、花のように見えるのはガクだそうです。コデマリはバラ科で、違う種類の植物のようです。

 

ツリバナ(ニシキギ科)
 花が長い柄の先に咲くのでついた名前のようです。面白い実の付き方をします。

 

フタリシズカ(センリョウ科)
 静御前(しずかごぜん)の舞姿からついた名前のようです。花穂は2本ばかりでなく、3-4本ある場合も多いそうで、花の開かない閉鎖花だそうです。糸状の花が咲くヒトリシズカとは違う形です。

水戸市植物公園の春の花(2)

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