ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の山(4)

2018-01-26 20:43:10 | 水戸

 水戸は高台と低地にわかれているようですが、その標高差は20mくらいあるので、低地から見ると、高台が山のように見えるので、地図上の山でなくても、山といわれているようです。もっとも、自治体が申請して認められれば地図上の山として認められるようで、一番低い山(宮城県の日和山)は標高3mだそうですから、水戸のどの「山」も地図上の山となる資格はもっているということなのでしょう。標高は、電子国土Webで調べました。

 

明神山(春日神社 下国井町1574) 11m(那珂川河原が3mくらい)
 これが今のところ水戸で一番低くて山といわれているもののようです。

 

観音堂山(台渡里廃寺跡 台渡里八幡神社あたり 渡里町)   33m
 台渡里に7世紀後半から末期に建てられた寺院のあった地だそうです。近くの長者山地区に建てられた倉庫群とともに、古代の重要な遺跡地域のようです。写真は八幡神社ですが、このあたりをいうのでしょう。

 

サンパチ山(渡里湧水群崖上、老人福祉センター長者山荘(渡里町3201-3)のある台地) 29m
 写真ではあまりわかりませんが、樹木の中間あたりが高台で、見上げるとなかなかの標高差があります。崖下の渡里湧水群では、ホタルの餌になるカワニナ育成のために、キャベツがたくさんまかれていました。

 

御杉山(第二中学校 三の丸2-9-22) 27m
 第二中学校のグランドあたりに水戸徳川家の霊廟があったそうで、幕末に水戸藩に下った戊午(ぼご)の密勅が、一時ここに置かれたそうです。杉の木が茂っていたので御杉山といわれたそうです。那珂川側への坂は御杉山坂といいます。

 

千波山(デイサロン 千波山 千波町508-63 )  20m(デイサロンの場所)、高い所は30m
 千波湖から見ると山のような高台ですのでいわれたようです。

水戸の山(3)

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水戸の郵便受け(2)

2018-01-25 19:54:10 | 水戸

 いろいろな郵便受けがふえているようで、今まで一般的だった赤い金属製の郵便受けはむしろ少数派になってしまっているようです。

 

顔文字型(東原)
  これは目立ちます。

 

 

童話型(吉沼町)
  幼稚園の近くなので、園児は喜びそうです。

 

ポスト(看板)型(漫画喫茶 ミトミ 西原2-2-35)
  なまじっかな看板より存在感がありそうです。

 

家型(平屋)(東大野)
  古くなっていますが現役のようでした。

 

家型(3F)(森戸町)
  手づくりのような、3階建ての郵便受けまでありました。

水戸の郵便受け(1)

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水戸の三葉葵(2)

2018-01-24 20:10:24 | 水戸

弘道館孔子廟(三の丸1-6)
  弘道館の聖域として建てられた鹿島神社と孔子廟は、神儒一致と文武不岐を象徴するものだそうです。その孔子廟の戟門(げきもん)の瓦に三葉葵がほどこされています。この門は、戦災で焼け残ったものの一つだそうです。

 

六地蔵寺本堂(六反田町767)
  横柱(長押(なげし))上の蛙股(かえるまた)中央に三葉葵紋があります。六地蔵寺は水戸徳川家歴代の位牌を仏式に供養することを許されていたそうです。ただし、位牌には戒名でなく「おくりな」が記されているそうです。徳川光圀の位牌は、黄門神社に移されているそうです。

 

中根寺千日堂(加倉井町595)
 方形造り(四方の屋根が中央に集まる作り方)で、屋根上部の宝珠下(露盤)に三葉葵があります。境内にある和田平助堂、薬師堂の屋根にもありました。中根寺は、光圀の保護を受けて常念仏の道場ともなって、非常に盛んな時代があったそうです。

 

光台寺本堂鬼瓦(上水戸3-1-39)
 鬼瓦やその下の掛瓦(かけがわら)に三葉葵があります。光台寺の檀家だった武士の家来の甚内が、亡くなった主人親子を弔うため光台寺門外に唐銅地蔵をつくり、6代治保(はるもり)は和歌をおくったそうです。もっとも、この地蔵は斉昭によって大砲鋳造のため取り払われたそうです。

 

神崎寺賽銭箱(天王町8-17)
 本堂前の賽銭箱に三葉葵がありました。倒れた亀甲松という老木の根元から長承2年(1133)と刻された古い経筒が出土し、時の神崎寺住職宥賀が光圀に献上したところ、光圀は箱書きをした箱にそれを収め、寺に安置させたそうです。経筒は火災にあったのか、ゆがんだり裂け目があるそうです。本堂、観音堂屋根にも三葉葵がありました。

水戸の三葉葵(1)

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水戸の地名の由来(4)

2018-01-23 20:20:35 | 水戸

久保町(くぼちょう)
 窪地だったので窪町といわれていたそうですが、のち久保町となったそうです。近くの砂久保という地名も同じようなことなのでしょう。向井町散々楽(ささら)舞台の柱上にかぶせた金具には久保町の町名が書かれているそうです。

 

水門町(みずもんちょう)
 一町目口ともいわれたそうですが、千波湖から桜川に流れ出るところにあった水門から、元禄3年(1690)に水門町の名がついたそうです。(昔はこのあたりまで千波湖が来ていました。)以前の橋とは位置が違うようですが、今、桜川にかかる水門橋という橋名に、地名の名残があります。

 

轟町(とどろきちょう)
 桜川にかかる石垣橋が、元禄3年に流れる水の音から「ドドメキ(轟)橋」と改称され、のちに町名も轟町になったそうです。橋は築城の手法によって築かれたそうです。今も名前を残す石垣橋があります。写真は旧町名石碑と伊奈備前守を祀った伊奈神社です。

 

材木町(ざいもくちょう)
 水戸城整備のために、町人地を台地上から本町(ほんちょう)に移したことを田町越といいますが、その田町はこのあたりで、当時多少の家並みがあったそうです。寛文(1661-1673)の頃から材木商が多くなり、この名になったそうです。

 

古宿(ふるじゅく)
 今の常照寺は古くは吉田城という城館で、佐竹氏の臣下・車丹波守もここに住んだそうです。その周辺が開けて宿場ができて、市が開かれ、古着市の宿として知られたそうで、そうしたことからついた名前のようです。写真は野木神社境内にある石碑ですが、近くには元吉田古宿街区公園もあります。

水戸の地名の由来(3)

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水戸の女人講中 石像(6)

2018-01-22 21:14:29 | 水戸

 女人講中という文字が彫られている、今回の古いものは、木葉下の明和2年(1769)の子どもを抱く子安観音です。二十三夜尊や地蔵でも女人講中と刻まれたものがありました。

 

木葉下(あぼっけ)信号脇(県道52号線 木葉下)
 明和6年(1769)と刻まれています。

 

飯富町(塙(はなわ)不動尊近く)
 石造物群の中にあり、享和3 年(1803)と刻まれています。これは子どもを抱かない子安観音です。

 

牛伏公民館(牛伏町 くれふしの里古墳公園近く)
 石造物群の中にあり、文政4年(1821)、牛伏村、女人講中などとあります。

 

             

水戸市岩根町(斧沼(よきぬま)の近く)
 明治30年(1897)とある、比較的新しいものです。

 

野木神社(元吉田町2574)
 享和2年(1802)の二十三夜尊で、「女人十五人ノ講中」とあります。

 

鯉淵町(県道40号線の旧道沿い 新津自動車近く)
 宝珠を持った地蔵で、文化3年(1806)とあります。

水戸の女人講中 石像(5)

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