小説に描かれてた水戸のいくつかです。
「商機」 長塚節
彼は水戸の或る通りへ近く洋品店を開く計画を成就した。其傍(そのかたわら)酒と醤油を商(あきな)ふことに極(き)めた。彼は今廿四(24)歳の青年である。暫(しばら)く奉公をして年季の明けたのは廿二の暮であつた。それからは年の若いのと運が向かないのとで家へ帰つた儘(まま)そここゝと彷徨(さまよ)つて別に目に立つことも無くて過ぎた。然(しか)し二年間の境遇は悲惨であつた。境遇から彼は年齢よりもふけて見えた。
(小編です。写生文としてはさすがだと思いますが、あまり商売というものを知らない人が書いたという感じがしました。明治時代の作品のようです。)
「夜明け前」 島崎藤村
もともと水戸の御隠居(徳川斉昭)はそう頑(かたくな)な人ではない。尊王攘夷という言葉は御隠居自身の筆に成る水戸弘道館の碑文から来ているくらいで、最初のうちこそ御隠居も外国に対しては、なんでも一つ撃ち懲らせ(うちこらせ)という方にばかり志を向けていたらしいが、だんだん岩瀬肥後(忠震 ただなり)の説を聞いて大いに悟られるところがあった。御隠居はもとより英明な生まれつきの人だから、今日の外国は古(いにしえ)の夷狄(いてき)ではないという彼の言葉に耳を傾けて、無謀の戦いはいたずらにこの国を害するに過ぎないことを回顧するようになった。
(水戸のご隠居という言葉がよくでてきます。この部分を見ても、徳川斉昭に対して親近的な見方をしているようです。昭和4年の出版だそうです。)
「悉皆屋幸吉」 船橋聖一
水戸の上市のはずれ高等学校の校舎をすぐ向うに見る丘の上の畑に、二三軒新しい家が並んでいる、その一軒を市五郎(幸吉の主人)は借りることにした。八畳に長四畳に、玄関、台所という間取りで、壁はまだあら壁のままであった。-
ある日、市五郎は組合の寄合の帰りに、康吉を、中川という鰻屋に誘った。いきのいい、身のあつい蒲焼が名物で、東京人の口に合うものは、ここ一軒だった。裏に小意気な座敷があって、大工町の箱(芸妓のこと)も入った。市五郎は座敷に上ると、白鷹(酒の銘柄)と中串を命じて、自分が床の間のほうへ坐った。
(大工町花街で遊んだ学生時代の体験が生かされているそうです。昭和20年に出版されたそうです。)
「日本沈没」 小松左京
茨城県水戸市木葉下(あほつけ)-水戸市西北方の、二百メートルほどの朝房山の東麓にある「あほっけ」という妙な読み方をする場所で、二、三十人の人々と救出の船を待っている片岡の心の中にも、そのもの悲しい気分が吹きつづけていた。すでに水戸市は完全に水没し、標高百メートルのその村落のすぐ下まで、鉛色の海がおしよせ、そこここの丘陵の尾根を岬に変えて、白い波が、樹林の梢を直接噛んでいる。
(龍の日本列島がのたうち回って沈んで行く姿をえがいたエピローグにあります。昭和48年の出版だそうです。)
「桜田門外ノ変」 吉村昭
安政四年(一八五七)正月二日-。前日は、朝から雲一つない晴天で、水戸の城下町には、元日らしいおだやかなにぎわいがひろがっていた。武家の玄関には根切りにした男松女松が左右に立てられ、豪商の家々にも門松がつらなり、正装した男女が連れただって神社に詣でる姿がみられた。年賀の者たちは、家並みの間の道を往き交って、知り合いの者に会うと挨拶をかわし、また、城中恒例の礼式に参列する藩士たちは、ぞくぞくと登城した。しかし、一夜あけたその日の城下町は、異様な空気につつまれていた。神社に詣でる者はいたが、多くの者たちが、江戸に通じる道にむらがっていた。
(映画にもなった作品のようですが、その書き出し部分です。平成2年の出版だそうです。)