写真は、横山大観が描いた「少年読本 水戸烈公」挿絵の斉昭像です。
交易では、輸入するものは無駄で害ばかりある奢侈品が多く、それに対して、わが国は地中から掘り出す有限の金銀を渡してるという考え方が中心にあったようです。そして、異国は日本が交易を拒否することが無法だというが、交易などで関係をもって日本を奪おうとすることこそ無法であると考えていたようです。天保10年(1839)の将軍徳川家慶への建白書にあるそうです。
大名や幕臣で志ある人が江戸の水戸藩邸に来ると、御座所に屏風などで仮の茶席をつくり、日常の大根の汁掛け飯と、卵の白身を月の輪形に切って野菜を加えたお吸い物を出し、相伴(しょうばん)には、水戸から新たに来た茶の知識のない文武の話を好む人を召して、我が家の茶人はこのようですといっていたそうです。
斉昭が大子町で宿泊した家へ、その礼として、旅沢と名のれといって名字を与えたそうです。他にも起原説はあるようですが、極めて稀少な名字のようです。
幕末の激動期をとりしきった老中・阿部正弘は、晩年は健康を害し、正視がはばかられるほどだったそうです。「15歳の新しい妾ができたから」とか「登城前には酒を2升くらい飲んでいる」などと茶坊主の噂話が流れていたそうですが、まじめな斉昭は、「交わりを減らせば」とか「牛乳を飲ませれば」などといっていたそうです。肝臓癌という説が有力なようですが、いろいろな説もあるようです。
偕楽園の梅は、軍用の梅干しとして1,000樽が目標だったようですが、結局300樽ぐらいしかできなかったようです。しかも、その梅干しは、水戸藩幕末の内戦で、改革派の天狗党ではなく、諸生派などが手に入れて、斉昭の思いとは全く違う方向で使われたようです。