鹿島神社(鯉渕町2924)
前九年の役で、天喜年間(1053-58)に奥州に向かった義家が、鯉渕を通ったとき、戦勝を祈願してここに鹿島神社を祀ったという社伝があるそうです。ただ、伝承によると、創建は天喜年間(1616)だそうです。
蔵田長者(鯉淵町)
鯉渕には官道が通っていてにぎわっていたそうですが、蔵田長者(清水長者、中台長者ともいわれたそうです)と呼ばれた富家があったそうです。義家が奥州でおこった後三年の役で鯉渕を通ったとき、長者の家に3日間休息したそうです。義家は、役の平定後帰るとき、長者に50石の軍用米を要求したそうですが、46石しか集められなかったそうです。それを受けとって鯉渕を出発した義家は、戻ってきて長者の家を焼き払い、一家を清水沼近くで殺したそうです。その地を地獄谷といい、供出した米の田んぼを四十六石(しじゅうろっこく)というそうです。一盛長者をはじめ、似たような伝説は各地にあるようです。写真は、桜の清水沼です。そういえば、「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる」と梶井基次郎が書いていましたっけ。
御旗(元石川町 36°19'29.8"N 140°29'59.6"Eあたり)
元石川町・手子后神社の近くに御旗(おはた)という地名があるそうです。ここは、義家が兵をとどめて旗を立てたことからついた名前だそうです。「下畑遺跡御旗塚」という石碑がたっています。
武具池(杉崎町 36°23'09.4"N 140°20'13.9"Eあたり)
義家が東征のときに、この池で武具を洗ったとか、武運長久を祈って武具を捧げたともいわれているそうです。写真左は「平成の内原十景 野鳥のさえずる武具池」と彫られた石碑です。
岩根の船渡
岩根町の根本と、対岸の那珂市戸を結ぶ、岩根の船渡(ふなど)という渡しがあったそうです。義家の奥州出兵のとき、初手の軍勢が川に戸板を集めていかだとして渡ったことから、「初手の渡し」といったそうです。対岸の戸という地名も、使った戸板からいわれるようになったそうです。写真は那珂西大橋ですが、渡しはたぶんこの近くだったのでしょう。