PROLOGUE
先日、養老・先生の文章を読んだ。そこには「世間の復活」
という言葉があった。ピン・とくるかい?
ちなみに以下の文章は養老じいさんとは関係ない。
マイ・オリジナル・思想である。
世間とはすなわち個人が埋没し、アメーバ状に
なった状態をさす。英語で訳せば「ワールド」
や「ソサイエティ」となるが、実際の我々の
「世間」はそんなキレイなもんじゃない。
ワールドは単なる姿を表す言葉。
またソサイエティは契約のもとに集まった
個人が造る集団のことを言う。
欧米諸国を見ればいい。
そこには確固たる個人が造る社会がある。
で、あくまでそれらは契約のもとになり
立っている。
すべては個人がもとにある。
さすがは「石」文化。
で、日本はどうなの?
君たち個人の概念なんかあんの?
アイデンティティを捨てよう
ないでしょ。
個人の概念なんかないでしょ。
私達が恐れる「世間の目」
何の根拠もないこの存在に私達は
縛られている。警察や役人といった
組織ではない。漠然とした「世間」
過去のモラルを言っているのではない。
古い習慣はとっくの昔に消えている。
だが、私達が気にする「世間」は
健在なのである。同世代の「世間」
の中でメール依存症の若者達。
繋がっていないと不安になってしまう。
流行り言葉をチェックし「世間」に
順応しようと努める。
外れることを恐れる。
個人。そして社会。
私達20代の人間にとってもその辺りは
関心無い。地元愛はあるにしても
その集団と自分との間の関係などは
考えない。税金等の金銭的しがらみ
に関しては考えるが所詮「お上の仕事」
という結論にいたる。
議会制民主主義なんて、今みたいな
アメーバ日本では機能しないんだっつーの。
「現状を壊してみたい」という興味本位
が起こした自民圧勝。
でも本当に大事なのは壊れた後どうなるかでしょ。
ゴミの焼却日が決まった程度で
何か新しいこと始まりますか?
確かにアメーバ化は進んでいる。それは日本人
の自然な流れ。だが問題は我々がそれを理解
していないというところにある。
メディアが作り上げるエセ・アイデンティティ。
自分達が欧米の人間と同じだと考える錯覚にある。
最近の自己啓発書の嵐に目を向けると
そこには理想の人間像が描かれており
それを目指せと誘惑してくる。
「頭がいい人」「できる人」
それらはアイデンティティが大きく関わる。
みんなジョン・カミラ。
また、ファッション誌に目を通しても
「うわっ」となるほどにアピールしている。
中田英寿。クールにアピール。
私は思う。それらはただのマスコット。
で、踊らされている現実のアメーバ。
個のシェイプで見れば岩や石にかなうはず
ないのに、「オレも固体だ」という幻想を
植え付けられているため逃げられない。
ダサイ。ダサ過ぎる。
アメーバ化は良く捉えれば液体への回帰。
それ自体はいい流れである。が、実際は
勘違いした人間が表層は石をキメ込み
内面はユルユルというあわれな現状を
生んでいる。
司馬さんの名著「坂の上の雲」
なぜあれがいいか。
それは液体人間が固体を目指し
それをなし得たから。
当時は危機的な状況であったため
固体化なくして独立は保てなかった。
人種の入れ替わりもドラスティック
に行なわれ、ヒップ・スターが
世を導く理想の状況であった。
当時のヒップ・スター達は心底知っていた。
固体の強さを。
液体の弱さを。
だからこそ命をかけて日本の固体化
を目指した。天皇の力による近代化。
ハイパーである。
ブッ飛んでいる。
で、液体の利点。一度流れが決まれば
末端にまで瞬時に対応。帝国の完成。
国民一丸となって国際舞台に躍り出た。
そんなフレッシュな模様を描いた
「坂の上の雲」いいのは当然でしょ。
ちなみに現代は
「坂の下に溜まるヘドロ」
誰が読みますか?こんな国民の物語。え?
今、セレブリティズムやハウ・ツー本
を押し付けているのは凶暴化した巨大
資本主義に他ならない。彼等は言う。
「凡人で終わっていいのか・・・」
「成功の味はこんなに甘いんだぜ・・・」
で、庶民はむしり取られるばかり。
思い出せ!日本のバブル期を!
当時我々の先輩達は液体人間讃歌
を謳っていた。
明治時代以来過酷に続けた固体化。
そして成し得た経済発展。
世界第二位まで昇り詰めて思った。
「私達は液体人間である」
電化製品は「ファジー」の合い言葉
にゆるくなった。
「曖昧でいいじゃないか」
コストは下がりみんなが気楽に使える
存在に。世界が日本の経営スタイル
に習った。
「みんなで協力しよう」
今では忘れ去られたスローガン。
個人のスキルより集団の連携プレイ
能力。「みんなまじめな中産階級」
過去をスッパリ忘れてしまう私達は
そうしたかつての栄光も水に流してしまった。
それはそれですごい。
他の国であればいつまでも未練たらしく
過去の実績にしがみつくところ。
で、何が問題なのかと言えば
明治時代のように固体化すれば
先がある訳ではないだろ。
石文化だってもう限界超えてるんだから。
表向きはグローバリズムの名の下に
世界は平等に一つになろうとしている。
でも一皮めくれば人類史上稀に見る程に
富は一極集中に傾いている。
カモになりうる相手はコマーシャル
で洗脳してむしり取る。
資源を持っている奴らはいいがかり
をつけてブン取る。
頭おかしい奴らには一応紳士的に。
それ以外は基本的に無視。
日本では表面上は欧米コマーシャル
の影響をモロに受けエセ・アイデンティティ
が浸透しているかの様。
でも内面はアメーバ化の一途をたどっている。
所得の格差が広がっていることが問題視されるが
その富裕層のバカさ加減に若年層は気づいている。
シラケが蔓延している。
「自分探し」なんかナンセンス!
それこそまさに固体化できなくなった
人間の焦り。どこにアイデンティティを
見いだせばいいか分からないが、そんなもん
はなから無い。「らしく生きなきゃ」
という今の「世間の目」を気にしている
時点で独立した個人になれる訳はない。
欧米人にとってのアイデンティティとは
石の種類分けのようなもので、幼時教育の
段階から叩き込まれている。それに反抗する
ためにアジアのユルサを真似たりするが
あくまでそれはポーズ。個人が選ぶライフ
スタイルの一つ。
成人を過ぎた人間が自分の根本を
見失いさまよっている現在の日本は
アホ。いいカモ。
本ブログ初回に書いた「歴史を捨てよう」
歴史とは欧米がかけた呪い。
アイデンティティとは現在の私たちを
縛るトラップ。罠。
アイデンティティを捨てることで
欧米が描くシナリオから抜けよう!
自分達の強みに気付け。
ヘドロからきれいな水に戻れ。
水は溜まっていると淀む。腐る。
キレイな水は流れている。
変なアイデンティティなんか
捨てて流れようぜ!
先日、養老・先生の文章を読んだ。そこには「世間の復活」
という言葉があった。ピン・とくるかい?
ちなみに以下の文章は養老じいさんとは関係ない。
マイ・オリジナル・思想である。
世間とはすなわち個人が埋没し、アメーバ状に
なった状態をさす。英語で訳せば「ワールド」
や「ソサイエティ」となるが、実際の我々の
「世間」はそんなキレイなもんじゃない。
ワールドは単なる姿を表す言葉。
またソサイエティは契約のもとに集まった
個人が造る集団のことを言う。
欧米諸国を見ればいい。
そこには確固たる個人が造る社会がある。
で、あくまでそれらは契約のもとになり
立っている。
すべては個人がもとにある。
さすがは「石」文化。
で、日本はどうなの?
君たち個人の概念なんかあんの?
アイデンティティを捨てよう
ないでしょ。
個人の概念なんかないでしょ。
私達が恐れる「世間の目」
何の根拠もないこの存在に私達は
縛られている。警察や役人といった
組織ではない。漠然とした「世間」
過去のモラルを言っているのではない。
古い習慣はとっくの昔に消えている。
だが、私達が気にする「世間」は
健在なのである。同世代の「世間」
の中でメール依存症の若者達。
繋がっていないと不安になってしまう。
流行り言葉をチェックし「世間」に
順応しようと努める。
外れることを恐れる。
個人。そして社会。
私達20代の人間にとってもその辺りは
関心無い。地元愛はあるにしても
その集団と自分との間の関係などは
考えない。税金等の金銭的しがらみ
に関しては考えるが所詮「お上の仕事」
という結論にいたる。
議会制民主主義なんて、今みたいな
アメーバ日本では機能しないんだっつーの。
「現状を壊してみたい」という興味本位
が起こした自民圧勝。
でも本当に大事なのは壊れた後どうなるかでしょ。
ゴミの焼却日が決まった程度で
何か新しいこと始まりますか?
確かにアメーバ化は進んでいる。それは日本人
の自然な流れ。だが問題は我々がそれを理解
していないというところにある。
メディアが作り上げるエセ・アイデンティティ。
自分達が欧米の人間と同じだと考える錯覚にある。
最近の自己啓発書の嵐に目を向けると
そこには理想の人間像が描かれており
それを目指せと誘惑してくる。
「頭がいい人」「できる人」
それらはアイデンティティが大きく関わる。
みんなジョン・カミラ。
また、ファッション誌に目を通しても
「うわっ」となるほどにアピールしている。
中田英寿。クールにアピール。
私は思う。それらはただのマスコット。
で、踊らされている現実のアメーバ。
個のシェイプで見れば岩や石にかなうはず
ないのに、「オレも固体だ」という幻想を
植え付けられているため逃げられない。
ダサイ。ダサ過ぎる。
アメーバ化は良く捉えれば液体への回帰。
それ自体はいい流れである。が、実際は
勘違いした人間が表層は石をキメ込み
内面はユルユルというあわれな現状を
生んでいる。
司馬さんの名著「坂の上の雲」
なぜあれがいいか。
それは液体人間が固体を目指し
それをなし得たから。
当時は危機的な状況であったため
固体化なくして独立は保てなかった。
人種の入れ替わりもドラスティック
に行なわれ、ヒップ・スターが
世を導く理想の状況であった。
当時のヒップ・スター達は心底知っていた。
固体の強さを。
液体の弱さを。
だからこそ命をかけて日本の固体化
を目指した。天皇の力による近代化。
ハイパーである。
ブッ飛んでいる。
で、液体の利点。一度流れが決まれば
末端にまで瞬時に対応。帝国の完成。
国民一丸となって国際舞台に躍り出た。
そんなフレッシュな模様を描いた
「坂の上の雲」いいのは当然でしょ。
ちなみに現代は
「坂の下に溜まるヘドロ」
誰が読みますか?こんな国民の物語。え?
今、セレブリティズムやハウ・ツー本
を押し付けているのは凶暴化した巨大
資本主義に他ならない。彼等は言う。
「凡人で終わっていいのか・・・」
「成功の味はこんなに甘いんだぜ・・・」
で、庶民はむしり取られるばかり。
思い出せ!日本のバブル期を!
当時我々の先輩達は液体人間讃歌
を謳っていた。
明治時代以来過酷に続けた固体化。
そして成し得た経済発展。
世界第二位まで昇り詰めて思った。
「私達は液体人間である」
電化製品は「ファジー」の合い言葉
にゆるくなった。
「曖昧でいいじゃないか」
コストは下がりみんなが気楽に使える
存在に。世界が日本の経営スタイル
に習った。
「みんなで協力しよう」
今では忘れ去られたスローガン。
個人のスキルより集団の連携プレイ
能力。「みんなまじめな中産階級」
過去をスッパリ忘れてしまう私達は
そうしたかつての栄光も水に流してしまった。
それはそれですごい。
他の国であればいつまでも未練たらしく
過去の実績にしがみつくところ。
で、何が問題なのかと言えば
明治時代のように固体化すれば
先がある訳ではないだろ。
石文化だってもう限界超えてるんだから。
表向きはグローバリズムの名の下に
世界は平等に一つになろうとしている。
でも一皮めくれば人類史上稀に見る程に
富は一極集中に傾いている。
カモになりうる相手はコマーシャル
で洗脳してむしり取る。
資源を持っている奴らはいいがかり
をつけてブン取る。
頭おかしい奴らには一応紳士的に。
それ以外は基本的に無視。
日本では表面上は欧米コマーシャル
の影響をモロに受けエセ・アイデンティティ
が浸透しているかの様。
でも内面はアメーバ化の一途をたどっている。
所得の格差が広がっていることが問題視されるが
その富裕層のバカさ加減に若年層は気づいている。
シラケが蔓延している。
「自分探し」なんかナンセンス!
それこそまさに固体化できなくなった
人間の焦り。どこにアイデンティティを
見いだせばいいか分からないが、そんなもん
はなから無い。「らしく生きなきゃ」
という今の「世間の目」を気にしている
時点で独立した個人になれる訳はない。
欧米人にとってのアイデンティティとは
石の種類分けのようなもので、幼時教育の
段階から叩き込まれている。それに反抗する
ためにアジアのユルサを真似たりするが
あくまでそれはポーズ。個人が選ぶライフ
スタイルの一つ。
成人を過ぎた人間が自分の根本を
見失いさまよっている現在の日本は
アホ。いいカモ。
本ブログ初回に書いた「歴史を捨てよう」
歴史とは欧米がかけた呪い。
アイデンティティとは現在の私たちを
縛るトラップ。罠。
アイデンティティを捨てることで
欧米が描くシナリオから抜けよう!
自分達の強みに気付け。
ヘドロからきれいな水に戻れ。
水は溜まっていると淀む。腐る。
キレイな水は流れている。
変なアイデンティティなんか
捨てて流れようぜ!