~ 露地はただうき世の外の道なるに
心の塵を何ちらすらん~
これは千利休の歌です。
露地は茶庭などともいいますが、
古くは路地とか路次とか書かれていたようです。
正式には外露地と内露地があり、潜り戸で分けられています。
外露地似は待合があり、内露地には蹲踞(つくばい)があります。
この露地には、
「外の世界すなわち日常的空間から、茶室という非日常的な別世界に導き入れる通路」
という意味があるそうです。
ですから、蹲踞で口を漱ぎ(すすぎ)手を洗うことは、心を漱ぐことであり、
そうやって、芸術的に隔離された空間へと入っていくというわけです。
招かれたお茶会や、お茶事で、良く手入れされた露地を歩くと、
知らず知らずに心が引き締まる思いもしたと思います。
しかし、露地はあくまでも通路であって、あまりにも見事でもいけないといいます。
露地を歩く時の飛び石も、
「渡りを六分に、景色を四分にすえるよし」
と、利休の言葉で古くから伝えているとか。
これは通路としての働きを主にして、見た目は四分でいいという意味ですね。
露地はその奥にある茶室の空間を生かすために、
それ自身にあまり作為があってもいけないということです。
こんな教えを知ってか、ある茶人が、
招いたお客様に飛び石の敷き方が見事だと褒められて、
客が帰った後に、石の敷き方を改めたという話があります。
利休の教えに従ったというわけですね。
俗世間から自然に異空間にいざなう道、それが露地であるようです。
裏千家我孫子茶道教室