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母と子で見る水爆ブラボー 3月1日ビキニ環礁・第五福竜丸 豊崎博光・安田和也

2013年08月15日 | 

 主治医の熊取敏之医師はその手記で、

「尊いその死―最後の瞬間まで、久保山さんは男らしく闘った。死亡当日、私が「久保山さん頑張ろう」と耳元で言うと、「ウン、ウン」と肯き返していた。しかし私の聴診器の中で心臓の鼓動がハタと途切れた時、とうとう半年にわたる私たちの闘いが、敗れさったことを知らなければならなかった…

「ご臨終です」小山内科医長と私が久保山さんの家族にそう告げた時、医者として冷静であるべき私の眼から不覚にも涙が溢れてくるのを、どうする事もできなかった」

死因について、「半年の治療結果を見れば、まさしくこれは放射能症である」、「アメリカ側としては血清肝炎であろうとか、直接放射能によるものではないと仄めかしたいようである」しかし、「久保山さんは放射能症の続発症でついに倒れたということは蔽うことはできない。放射能症は時間が経てばいろいろな疾病の恰好をとるのである」と述べている。

 

全国民の願いはかなわなかった。

遺体は、久保山の遺言により病理解剖に附された。それは残った患者の治療に役立ててほしいとの強い願いからであった。久保山愛吉は

「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との言葉を遺した。

 

 

1969年3月、NHKテレビがドキュメンタリー番組「廃船」を放映し、第五福竜丸への関心が高まった。

4月10日には、船の保存を訴える「第五福竜丸保存の呼びかけ」が出され、7月には保存委員会が結成された。このときのよびかけ人は、三宅泰雄、檜山義夫、中野好夫、美濃部亮吉、鈴木正久、壬生照順、森滝市郎、畑中政春の八名で、個人の資格で呼びかけたものだった。そして保存委員会には、ビキニ水爆による放射能雨や海洋の放射能汚染問題にかかわった専門家、評論家や宗教者、原水爆禁止運動の関係者などが参加した。

その訴えは、-(1954年3月1日の第五福竜丸被災の衝撃は)広島と長崎における悲惨の記憶からまだ日も浅く、原爆被爆者の援護すら放置されている中で、三たび核兵器の悲惨を、しかもより巨大な威力をもって体験させられた…これを契機に日本国民の原水爆禁止の国民運動を呼び起こした…

15年前の恐怖は、今日もなお、消えるものではなく、核戦争の危機はますます強まっている…平和への希いと理性への信頼を同じくする国民と共に、保存への具体的な責任を果たそう―と呼びかけている。

ここには、広島・長崎とともにビキニの水爆実験被害を伝えていこう、原水爆のない世界の実現に向けて、国民の平和への願いを集めようとの思いがこめられていた。

 

こうして、1976年6月10日、都立第五福竜丸展示館がオープンした。展示館前の広場には、久保山愛吉無線長のことば、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」を刻んだ記念碑が建てられた。

  

第五福竜丸は、いまだ航海中である。

この船を守り保存と展示を実現させたのは、多くの市民の原水爆のない未来を求める声であり、戦争も核実験もなくしてほしいという平和への願いである。

その実現の日まで、平和な港に錨を降ろすその日まで、第五福竜丸は航跡をきざみつづけるだろう。

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