My Favorite 《ゴールデンイーグル&Sleeping lion》

私の好きな有名人、本、食べ物、ちょっと一言、感謝する事、etc

核融合科学研究所

2013年09月26日 | Weblog

核融合のしくみ

原子核同士を勢い良くぶつけるとくっついて別の新しい原子核がつくられます。このことを核融合といいます。原料の原子核と新しくできた原子核の質量を比べると、反応後の質量が減少しています。この減少した質量の分がエネルギーとして出てきます。

将来の核融合発電は、水素の仲間の重水素と三重水素を核融合させて発生するエネルギーを利用します。

通常の状態では原子核が単独で存在することはない為、核融合反応が起こる事はありません。

まず初めの段階として、原子核と電子をばらばらにしなければなりません。物質を加熱していくと、固体、液体、気体と形状が変化していきます。気体をさらに加熱していくと、原子の原子核と電子がばらばらになって飛びまわるプラズマ状態に変化します。

物質をプラズマ状態にして、原子核と電子をばらばらにするだけでは、まだ核融合反応は起きません。

原子核はプラスの電気を帯びている為、互いに反発してしまい、近づくことが出来ません。

その反発する力に打ち勝つためには、プラズマを高温にすることが必要です。そうすると、原子核が勢い良くぶつかって、核融合反応が起きやすくなります。

 

核融合炉の3大条件

a 約1億度(温度10keV)

b   100兆個/cc(密度10 14cm-3)

c   閉じ込め時間1秒以上

 

{パンフレットから}

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贖罪

2013年09月25日 | 

一枚の写真がある。

入浴する智子と母

 

この写真を見てなんともいえない神々しさを感じた。

まるで聖母マリアとキリストのように。

贖罪の羊。

自己を犠牲として、罪を負ったキリストが智子と重なる。

わが子をやさしく抱える母親の優しい眼差しは、まるで聖母マリアのようだ。

 

一枚の写真から、一言で言い表すことができない、あらゆるエモーションがあふれ出ている。

無償の愛・人間が犯した罪の重さ・権力への迎合・闘争・悲しみ・欺瞞・恐れ・無知・貧・希望…

 

智子の手は曲がって変形している。

痩せた身体・とても細い足…。

本当はこの写真をブログに載せて、皆に見てもらいたい。

人間が犯した罪を、水俣病のことを皆に知ってもらいたい。

でもご家族の思いを、ネットで見て知ったのでそれはしない。

 

 

写真集をみて思う。

同じ過ちを繰り返してはいけないということを。

真実を見ないで、知らないふりをするのも罪だということを。

経済発展の裏で、犠牲になった人たちがいることを。

経済発展の裏で、自然環境を破壊してきたことを。

 

権力をもつ人間が、先見の明をもちその力を正しく使わないと、どうなるかということを。

見えているものを正しく認識しなければ、歴史という時の流れの中で、汚点として歴史にその名を刻むことになることを。

 

この写真集の復刻版はこれから先出ないだろう。

戦争と同じように、水俣病があったことを知らない人達が増えていく。

だけど水俣病はいまも終わっていない。

そしてこれから先も、人の命よりも利権を第一に考える人達がいるかぎり、名前を変えて第二、第三の水俣病は続いていくだろう。

  

写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス  

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いつになったら気づくのだろうか?もっと経験しなければならないのか?

2013年09月24日 | 

事務所を訪れる客は、とくにきかないかぎり、水銀のことは知らされない。いや、知らないから聞かないのだ。ケノラでの空気は「知らなければ無害だ」というようなものだった。

どうしようもない状況にいるカナダの活動家数人をのぞいて深刻な憂慮を表明したのは、水俣と新潟の人たち、医師たち、弁護士たちである。私が日本にもどると彼らは「カナダには最新の医学的情報がありますか」ときいた。私はあると答える。そう、あるけれども、カナダでは役にたてたくないらしいのだ。水俣病を知る私たちが充分説明していないのだろうか?いま以上に何を知らなければならないというのだろうか?

私たちは新潟と水俣を経験してきた。もっと経験しなければならないのか?

世界は隔離箱で出来ているのではなく、日本で起ったことは、飛行機で氷漬けの魚を持ち帰るシカゴのビジネスマンにも起きうることを、いつになったら気づくのだろうか?

ビジネスマンは自分はかからないと思うかもしれないが、彼だってインディアンや水俣の人びとと同じ人間なのだ。

おそらくーそうあってほしいがーカナダでの発病は流行性の水準に達さないかもしれない。しかし、そうなった時は、犠牲者にとっては、何をしても手遅れなのだ。

カナダで見てきたこと聞いたことを水俣で話すと、友人たちは頭を振るのだった。水俣の患者たちがカナダのことをまるで水俣のどこかすぐそこのことのように話すのをカナダの人たちが聞ければいいのにと思う。カナダの人たちが、水俣の患者たちの目にある未来の患者を思う悲痛を感じてくれることを願いたい。

 

写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス          

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しのぶ

2013年09月23日 | 

小さいときから、しのぶは自分が水俣病であることを知っていた。

「ばってん、なんしてか、わからんじゃった。食わんじゃった…悪か魚は…悪か魚は、食わんじゃったとに、なんして病気じゃろか。お父さんとお母さんにきいた…言わんじゃった。」

「いつか、お母さんと私とふたりっきりだったけん、お母さんにきいたとよ。『水俣病てどげん病気ね?』ち。お母さんだまっとらした…でていった。お母さんは泣くところば見らるっとようなかて思わしたとよ。お母さんは優しかばってん、憎らしかったとよ。海ば見に行かした。私は走っておいかけたとよ。はなれてから夕陽ば見たと。1時間半。海、ほんとに…なんしてか美しかった。考えたよ。『私の病気は…なおらんと。海はこげん美しかて、なんしてこげんひどかこつのあっとね』

「その晩、お母さんの前で言いたかった『いつか、ようなるて思う』ち。お母さん、お父さんの前では元気のなかとはようなかち思った。」

「そっで、なして…こげんなったか…考えた。」

 

3年のとき、しのぶの学校はバス旅行に行った。

「私は考えたと。『なんして特殊学級の子どもたちはバスのうしろに坐らんばんとだろうか。みんなおんなじ人間じゃなかね?』ち。そん旅行んときにね、どぎゃんふうに病気になったかわかったとよ。先生たちがしゃべっとらしたとば聞いたよ。ひとりの先生が、私んこつばしゃべっとらした。『ああ、あん子は胎児性だ。母親が汚染した魚を食べて、生まれつき病気になった』ち。ショックだったよ。はじめてわかったとよ。」

「バス旅行のあいだずうっと考えとった。恐ろしかこつば考えとった。お母さんが憎らしかったと。私を病気にした。恐ろしか。恐ろしか。恐ろしか、私が考えたこつは。出刃ぼうちょうで殺そうて決めたよーグサッーそっで、自分も死のうて。恐ろしか…恐ろしか…そげんせんだったとは、弟がかわいそうかし、お母さんもかわいそうか。ばってん、6年になるまで、ときどき考えたこつのあるとよ…自分だけ死ぬこつもときどき考えた。一回したばってん、お医者さんにおごられただけだった。」

 

「お父さんとお母さんがおられんごつなれば…心配…。自分でなんでんせんばち思えば心配…自分でしやならんど。ほんとは、ほんとは、残ってもらいたい、みんなに。」

写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス    

 

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カネ

2013年09月22日 | 

カネが水俣の村々に侵入する。渡辺の家で、判決後の夏のこと、保さんは言うのだった。

「おもしろかもんば見せちゃろか?」そして彼は名刺の束を私たちに見せる。

100以上はあったに違いない。彼はそれを二つに分ける。「こっちは、3月の判決んすぐ前来たマスコミんもんたい。あんたも見たろ、取材の順番ば待ってから外に列ばつくっとったもんたちたい。こっちんとは、マスコミんもんたちの来んごつなったそん日、判決の日から、来はじめたもんたちたい。」

カードをポンとたたいて彼はづづける。「銀行、また銀行、労働金庫、郵便局。郵便貯金のあっとは知っとっでしょ。家具のチェーン店、建築業者、いっぱいこっぱい。この寝椅子も、そこん毛布も、ライターも、万年筆も、全部そげん人たちのくれらしたと。全部おったちの保証金めあてに、こげんさびれてしもうとるとこっまで来っとたい。金ば入るっと、北海道旅行ばさせちくるる銀行もあった。」

 

写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス 

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熊本地方裁判所 判決理由 (要旨) 1973年3月20日

2013年09月21日 | 

「化学工場が、廃水を工場外に放流するにあたっては、常に最高の知識と技術を用いて排水中に危険物混入の有無および動植物や人体に対する影響のいかんにつき調査研究を尽くして、その安全性を確認するとともに、万一有害であることが判明し、あるいはその安全性に疑念を生じた場合には直ちに操業を中止するなどして必要最大限の防止措置を講じ、特に地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するものといわなければならない。

いかなる工場といえども、地域住民の生命・健康を侵害し、これを犠牲にすることは許されないからである。」

「被告工場における排水の水質が法令上の制限基準や行政基準に合致し、その排水処理方法が同業他事業所のそれより優れていたとしても、被告工場がアセト・アルデヒド排水を放流した行為については、終始過失があったと推認するに十分であり、廃水の放流が、被告の企業活動そのものとしてなされたという意味において、被告は過失の責任を免れないものといわなければならない。」

写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス

 

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ジャーナリスト ユージン・スミス

2013年09月20日 | 

しかし、私は気づいてもいた。黒ぬりの会社の車がゆっくりと通りすぎながら偵察をしたのを、守衛たちが頻繁に工場の奥へ入って行っては、作業衣の男たちとやり取りするのを。私は不安だった。

突然、労働者の一群がある建物のかげから守衛室に集中攻撃をかけた。私は守衛室に向かって走った。妻のことを思ってだった。取材など頭になかった。暴徒はわれわれを守衛室に押し込んだ。ひとりが吠えるように命令する。彼は帝国陸軍の軍曹だったに違いないと思った(これは正しかった)。

3分以内にここから退去せよーしかしどの出口もふさがれているのだ。

「川本さんに3時の電話を受けさせないつもりだわ!」とアイリーンが私に叫ぶ。

攻撃開始。最初にやられたもののうちわたしはもっともひどくなぐられた。いや、たぶん私のカメラはもっとひどくやられた。最後の一枚は、出来の悪い手ぶれだが、左の男はその瞬間私の股ぐらを蹴りおえ、カメラを取ろうと手を伸ばしているところ。右の男は私の腹をねらっている。4人の男が私の手足を取って、ひっくり返った椅子の足の上を引きずり、別の6人の手に渡し、今度は私の頭は外のコンクリートにたたきつけられた。ガラガラ蛇の尾をもって叩きつけ殺すあのやり方だ。そしてゲートの外にほうりだされた。

目がくらみ、私はふらふらしながら起きあがる、殺してやりたいほど怒りに震えながら。ガラガラを閉まるゲートの向こうに暴徒は腕組みをして立ち、笑っていた。

チッソに仕組まれたのだー連中は、まったく、はじめから患者たちを脅かし、例の外人ジャーナリストをかわいがってやろうというつもりだったのだ。まちがいない、3時の電話などはじめからなかったのだ。

しかし連中は誤りを犯した。著名なアメリカ人ジャーナリストをなぐったことで、チッソに対する不評がなだれのように押しよせ、川本輝夫や水俣の正義の高潔さをきわだたせるばかりであった。もしこれがチッソの本性なら、と人びとは言うのだった。正しいのはたぶん患者のほうだ。私は傷の痛みに苦しまねばならなくても、患者への国中の共感が増したという事実がなぐさめだった。

事件ののちチッソは即座に声明文をだした。つまり、ユージン・スミスはヒステリックになり自らを傷つけたと。実際の殴打よりもこのことのほうに私は腹を立てた。私たちは襲撃者たちとの公開討論会を要求し、また声明の取り消しを要求した。数回の会見で、チッソは、「遺憾」であるとの声明を出してもいい、あなたがたが警察に訴えないならば、責任は認めませんが医療費は払いましょう、と提案した。うそを公式に訂正してほしい、と私は言った。彼らは個人の財産―私の名誉―を破損したのだ。もしほんとのことを言えば彼らに不利に利用される、とチッソの代理人は私にこっそり言うのだった。私は言った、「あたりまえだ。」

彼らは何も撤回せず、何も認めなかった。会社のやり口のおかげで、私は、患者たちが長年苦しみに耐えて来た、やりきれなさをまのあたりにしたのだ。

私は告訴はしないことにした。原告とジャーナリストの両方ともをまっとうすることは無理だから。

写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス 

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人間破壊

2013年09月19日 | 

父さんは悪くなる一方だった。ひとり部屋に移しロープで手足をベッドにしばりつけた。それでも彼は暴れ狂い、言葉にならない言葉を発し、よだれを垂らし発作を繰り返した。3人の子どもたちが看病した。眠らないので、睡眠薬を注射した。看護婦たちが管で流動食を与えても、その管をすぐはきだしてしまう。発作は、始め短かったが、日がたつにつれて長くなった。「おっかさんは」と二徳は思いだす。「よう、おとっつぁんのことばじいっと見とらした。ただ立ってからー涙ぼろぼろこぼしながらーぼうっとしとらした。だけん、おっかさんも同じ病気にかかっとるてわかった。」

「医者どんに、おとっつあんば死なせちくれて何べん頼んだかわからん。あぎゃんおとっつあんば見るとは耐えられんだった。だけん、おっかさんは、自分もどんどん、わからんごつなっとに、『早う死なれるもんなら、死んだ方がいいのにね』ち、言わした。」

死はすぐにはこなかった。安楽死もさせなかった。発作は頻繁になる。意識はもうなかったが、壁に、自分の身体―足、頭、手―に爪をたて、爪がはがれ身体から血が流れるまでひっかいた。死ぬ二、三日前には、目は動かなくなっていた。父さんは発病3週間で死んだ。

熊本大学の医師たちは死の直前の浜元惣八を8ミリにとった。フィルムを見たものは、それは人間破壊についての痛ましい記録である、という。

 

写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス

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災害によるNHK受信料の免除

2013年09月18日 | Weblog

NHKの地上契約から衛星契約に変更する件で、NHKの対応に疑問を感じた私は、暫くNHKの営業担当者と話をしていた。

納得いかなかったので、衛星契約は結ばなかった。

 

その時に貰ったNHKのパンフレット。

私の件とは関係ないけど、そのパンフレットにこう書いてあった。

放送受信料の免除

「日本放送協会放送受信料免除基準」に該当する場合は、放送受信料の全額または半額が免除となります。

免除申請書をNHKに提出していただきNHKが受理した月から、免除の事由が消滅した月まで免除となります。

詳しい免除の対象や申請方法については、NHKにお問い合わせください。

全額免除

○公的扶助受給者

○市町村民税非課税の障害者

○社会福祉事業施設入所者

○災害被災者(半壊、半焼、床上浸水以上の被災。原則2か月間の免除で、申請書の提出は不要です)

○社会福祉施設

○学校

 

市町村によっては、災害で被害を受けたら水道代が一ヶ月分全額免除になるところもあるけれど、NHKの受信料にも災害時の全額免除制度があるとは知らなかった。

 

台風18号でかなりの地域が床上浸水の被害にあってしまった。

私は子供の頃から水害で床上浸水の被害に何度かあい、畳を机の上にのせたりして、水害の大変さはわかっている。

被害を受けた人達は、こういう制度を活用しないとね。

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サイクレーター

2013年09月17日 | 

水俣では神話が力を持つ。たとえばサイクレーターの神話。

1959年12月のサイクレーター開設式のとき政府の役人やほかの来賓たちの見守るなか、チッソ社長は「直接」この最新型排水処理装置から水を飲んだ。だからそれ以来、ほとんどの人たちはチッソの排水はきれいだと信じてしまったのだ。

「結果的に言うと私はだまされとった」と熊本の前知事寺本広作は言う。彼も儀式に参列していた。「あれに最初から…アセトアルデヒドの製造工程で出た廃液を入れないことになっておった。」「それはずうっと、何年かあとに知ったわけです。」

これを知事が認めたのは法廷の宣誓のもとである。にもかかわらず、今日でさえ、裁判で明らかにされた証拠すら知るものは少ない。町のほとんどの人がいまだに、サイクレーターは排水から水銀を完全に取りのぞいた、そしてまちがいなく1959年以降水俣病の毒素は排出されていない、と信じている。

チッソ幹部はだまされていない。あたりまえである。ある日、私がサイクレーターから水を1杯とって口に持っていくと、私たちを連れて工場のなかを案内していた男は、とめようとあわてて、ころんでしまった。もう水銀を使用してはいなかったが、私が毒を飲むところだったとするなら、やはり何かが装置から漏れだしているに違いないのだ。

患者たちですらサイクレーターが効果がないのを知ってショックを受けたのである。あのサイクレーター神話は水俣ではそれほど強く、住んでいるだけでなかば信じてしまうほどである。

それでも人生はつづく…

 

写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス 

 

☆★☆歴史は繰り返す!

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写真集 水俣 MINAMATA W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス  

2013年09月15日 | 

現代の荒野から 石牟礼 道子

 

現代社会の中に水俣を浮上させてみると、いまだ読み解かれぬ仏典や、聖書の地にいる気がする。

人の罪あるいは神の罪がここに甦り、わたしたちはより重い贖罪の時代にはいった。

そのような意味で、ここは選ばれた聖地であり荒野である。

仏典や聖書は現代においては生ま身の苦しみを描いた倫理の規範だけれども、生きている聖地には毒と血がながされる。

現世に居場所を失くした異形の人々に神の面影が宿るのは、その心と軀から流される血のゆえである。

このような世界に生きていることは真実に恐しい。

ここには神が造り給うたものがなんでもある。

神話的次元での残酷と野蛮と偽善と策謀、

絶望の底の愛と戦いがあり、

神もくつろぐ野のエロスまである。

そして人は、おのが中身に見合った外貌をつけて秘蹟の場所にあらわれる。

神の讃えと罰とが峻別されて、そのとき、人々の表情にあらわれる。

ユージン・スミスとアイリーンは、そのような表情の瞬間を人間的肉眼でとらえ、現代の聖画を再構成して見せるのである。

 

過去の誤りをもって、未来に絶望しない人びとに捧げる。

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大阪のカモ鍋とてんぷら 新喜楽

2013年09月15日 | グルメ

大阪駅の近くにあるヒルトンプラザ

その中にある新喜楽

ランチ時に行って、えび塩天丼とカモ鍋がついて880円だったかな?

えび塩天丼は上から塩が降ってあり、カモ鍋はカモ肉が少し歯ごたえがあってネギが多い。

あっさりしたスープ。

汗だらだら流しながら食べたけれど、少し寒くなってから行くと体が温まっていいかも。

 

新喜楽 ヒルトンプラザ店

06-6345-3461

大阪府大阪市北区梅田1-8-16 ヒルトンプラザイーストB2F

ヒルトンプラザHP

http://www.hiltonplaza.com/floor/e-b2.php

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パティスリー TOKIWA

2013年09月14日 | グルメ

夏になると食べたくなるレモンパイ

何箇所かケーキ屋さんをめぐって探し出したレモンパイ

ここのレモンパイは円形だったのでちょっと意外。

フランボワーズ

きれいな赤とピンクが綺麗

甘酸っぱくていい感じ

テクトシトリン?

レモン味のマカロンと酸っぱいレモンクリーム

下はチョコクリーム

この中で一番好き

 

パティスリー TOKIWA

愛知県 小牧市 常普請 3丁目115番地

あいちけん こまきし じょうぶし

電話 0568-39-6632

営業時間 10::00から20:00

定休日 水曜日

電話番号では車のナビが検索できなかったので、住所から検索して

大きい教会?の反対側にお店がある

値段は380円位

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Lady Justice (正義の女神)(5)  

2013年09月11日 | 

 水俣病闘争の奇跡「黒旗の下に」  池見哲司 著

 

73年の水俣病訴訟判決と補償協定によって、それまで息を潜めていた未認定患者が続々と申請に踏み切り始めた。71年には年間167人だった熊本県の申請者数は、73年には1939人と激増した。

認定審査が追いつかず、73年末の未処分者は2000人を突破した。せいぜい年に数十人だった時代の認定制度と審査機構では対応できなくなっていることは、誰の目にも明らかだった。しかも認定審査会は、委員の人選をめぐって患者側の反発を食い、四月から空白状態が続いていた。予想を超える事態を前に、行政はほとんど無為無策だった。

水俣病に接したことのない不慣れな医者が多かったことや、受診者の訴えを疑ってかかるような姿勢が目立ったことなどから、申請者の反感を買った。

「手足のしびれを調べるとかで、注射針であちこち突っつかれた。痛くないと答えたら、血が出るまで何度も突っつかれた」

「視力検査で『ぼやーっとして見えんとですが』」と答えると、いかにも疑わしそうに、馬鹿にした口調で『よくここまで来られましたね』と言われた」

「耳鼻科検診で、音が聞こえたらブザーを押す検査があった。何も聞こえないので押さないでいると、女の健診医に『私がボールペンを動かしたときに音が出るから』と誘導され、言われるままにおしてしまった」

宮本は熊本県北部の生まれ。59年12月に結婚して水俣に住みついた。チッソが有機水銀除去に効果のない排水処理装置をつくって、地元を欺いた時期だ。「もう大丈夫と信じ切って、魚を釣っては食うたっです。二次汚染ですたい」

サイクレーターと呼ばれたこの装置は、漁民による打ち壊しまで起きた漁業補償問題が一段落した59年12月19日に完成した。チッソは知事の寺本広作らを招いて盛大な完成式を催し、社長の吉岡喜一が処理水を飲んでみせた。

ずっとのちになって、有機水銀を含んだ問題のアセトアルデヒド製造工程の排水は当時、ここを通していなかったことがわかる。それに、もともとサイクレーターに水溶性の有機水銀を除去する能力はなかった。

72年2月、水俣病訴訟の口頭弁論で、原告側弁護人が証人のチッソ元技術部長をこう追及している。

「新潟水俣病の裁判で、昭和電工の安藤取締役が『チッソに問い合わせてみたら、サイクレーターの効果はない、作った目的は社会的紛争の解決手段であるとのことだったので、昭電では考えなかった』と証言してますよ」

水俣のような排水処理装置をなぜ新潟でも設けなかったのか、と法廷で原告側に追及された昭電側が、図らずもチッソのまやかしぶりを暴露してしまったのだ。

熊本地裁判決も「サイクレーターとは、循環式凝集沈殿方式によって、固形物を多量に含む排水を浄化する装置」であり、チッソが導入したのは「排水中の固形物の大部分を占めるアセチレン発生残渣を利用してマグネシアクリンカーを製造する」事業計画の一環だったことが伺える、と述べている。

それでも、見た目には汚濁が目立たなくなったし、これで水俣病は終わったという風説が広まったから、多くの市民が魚を食べた。宮本は63、4年頃から手足のしびれがひどくなった。申請したのは73年9月。5年半待たされて79年4月に処分保留になり、神経内科などの再診を求められていた。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

安部総理のオリンピックでのプレゼンを聞いた時、これではっきりと首相は福島を置き去りにしたのだという思いが強くなった。

テレビで言われているように、オリンピックの為にヒト・モノ・カネが東京に集まる。

被災地の復興はさらに遅れ、仮設住宅から抜け出せなくなって、孤独死が増えてしまう。

私は、東京でのオリンピック開催が決定しても全然嬉しくなかった。

そのお金があるなら、被災地や原発収束に向けて使うべきだから。

 

復興よりも経済発展を目指す日本。

私は福島原発の汚染水が海に流れ出ることに対して、以前から不安感を抱いていた。

根拠はないけれど漠然と、水俣病の再来のようになりはしないだろうかと感じていた。

水俣病を認めなかったチッソ、国の対応の遅れ。

 

チッソが有機水銀除去の為に作った排水処理装置のサイクレーター。

実際は水溶性の有機水銀を除去する能力はなかった。

このサイクレーターが福島原発にある※第二セシウム吸着装置(サリー)と重なってしまう。

※)今は「多核種除去設備」(Advanced Liquid Processing System:ALPS)

 

ALPSは東芝が納入したもので、汚染水に含まれる63種類の放射性物質のうちトリチウムを除く62種類を基準値以下まで除去できるとして2012年秋の稼働を予定していたが、本格運転が遅れている。

 

この装置で除去することが出来なかったものは、海に放出されてしまう。

その行為がどういう結果をもたらすのか…

  

Lady Justiceはいかなる審判を言い渡すのだろうか。

人の命と引き換えに経済発展を目指す日本という国に。

それを選んだ日本国の首相に。

首相を選んだ日本国民に。

  

2013年9月4日 大阪の電車に乗っていて、ふと窓から外を見ると雨上がりにあるものを見ることが出来た。

もしかしたら私の人生の中で、最初で最後になるかもしれないダブルレインボー。

この虹を見た人は願いが叶うという。

 

私は人間の強さを信じたい。

どんな困難に陥ろうとも、そこから這い上がってくる人間の強さを。

わかりにくいけれど、外側にうっすらと虹が出ている。

 

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Lady Justice (正義の女神)(4) 

2013年09月10日 | 

水俣病闘争の奇跡「黒旗の下に」  池見哲司 著

59年7月、熊大の水俣病研究班が有機水銀説に行きついた。これが引き金になって漁民騒動も起きた。厚生省の食品衛生調査会は、熊大研究班を中心メンバーとする水俣食中毒部会の中間報告を踏まえて11月12日、「水俣病の原因は湾周辺の魚介類中のある種の有機水銀化合物」と厚相に答申した。

食中毒部会は引き続き、原因企業がチッソであることを明らかにする構えでいた。ところが、答申を受けたその日、厚相はなぜか部会を解散させてしまう。通産省から圧力がかかったと考えて間違いない。翌日の閣議で厚相が答申内容を報告すると、さっそく通産相の池田勇人が「有機水銀が工場から出たと結論するのは早計」と牽制球を投げた。その挙句に18日、厚生省は仕事を取り上げられるのだ。

突然、お鉢が回ってきたものの、経企庁にやる気はなかった。主宰した「水俣病総合調査連絡協議会」は四回の会合で自然消滅。63年二月には熊大研究班が「原因物質はチッソの排出したメチル水銀」とまで断定したが、それでも国は手を打たなかった。そして65年5月、新潟で第二の水俣病が確認された。

「こんにちただいまから、私達は国家権力に立ち向かうことになったのでございます」

1969年6月14日、熊本地方裁判所に訴状を出した原告代表の渡辺栄蔵は、地裁前の集会でこう挨拶した。

水俣病の認定患者29世帯がチッソを相手取って起こした損害賠償請求訴訟。71歳の老体の胸中には、患者を圧殺してきた本当の敵は、チッソではなく「国家権力」であるとの思いがたぎっていたに違いない。 

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