ある秋の夕暮れどきのことです。庄屋の五兵衛は高台にある自分の家の縁側に座っていると長いゆったりと揺れ方とうなるような地鳴りの不気味な地震を感じました。
その直後、ふと目を海に向けると、波が沖へ沖へと逆方向に動いて、次第に海の底が広がっていく状況に思わず息をのみました。
とっさに津波だと予感した五兵衛は、このままにしておいたら400の命が村もろともひと呑みにやられてしまう。
一刻もぐずぐずしてはいられない。「よし」と叫んで、家へ駆け込んだ五兵衛は、大きなたいまつに火をつけ、それをもって飛び出しました。
そこには取り入れたばかりのたくさんの稲束「稲むら」が積んでありました。
「もったいないがこれで村中の命が救えるのだ」と叫んだ五兵衛はいきなり、その稲むらのひとつに火を移し、次々と火をつけて走り回りました。
やがて夕闇の中に天を焦がすほどの高さに燃え上がった炎を見て、村人が半鐘を鳴らし、海辺に住んでいる村人たちは高台にある彼の家に駆け上がってきました。
五兵衛が後から後から上がってくる老若男女を一人一人数えました。
ほぼ一同が揃ったとき、五兵衛は力いっぱいの声で叫びました。
「見ろ、やってきたぞ」
黄昏の薄明かりをすかして、一同が彼の指さす彼方を見ると、黒々とした大きなうねりの波がこちらへ向かって押し寄せてくるのを目にします。
やがて百雷が一時に落ちたようなすさまじい轟きとともに押し寄せた波が村全体を呑み込み、そのあと潮が引くと同時に村全体がえぐりとられ、跡形もなく消えていました。
こうして、彼の機転が多くの命を救ったのです。
これは実際にあった話で、安政元年(1854年)12月24日に、安政の南海地震が発生し、日本各地に大きな被害をもたらしました。
この時の地震はマグニチュード8.4であり、1923年の関東大震災の7.9から比べると、いかに大きかったかがわかります。
この地震で津波の高さは30mを超えるものといわれます。
このモデルとなった濱口儀兵衛(1820~1885)は当時34歳でした。
儀兵衛は、この津波の後、コメの借り入れなどに東奔西走し、避難民の為に私財を投じて50軒の家を建てました。
さらに、私財を投じて津波を防ぐための防波堤をつくりはじめ、4年の歳月をかけて完成した堤防は、高さ4.5m、全長670mに及ぶものでした。
この堤防工事には被災して職を失った地元の人達があたり、この賃金によって日々の暮らしを支えることができました。
この堤防は「広村堤防」と呼ばれ、儀兵衛の遺志の通り、92年後の昭和南海地震によって発生した津波からも広村の人々の生命を守りました。
現在もこの防波堤はコンクリートで補強され、住民を守り続けています。
災害列島日本の地盤を探る 前野昌弘