30年近く前の1983年5月26日、日本海中部地震が発生し、大津波によって青森県や秋田県の沿岸で100人もの死者が出ました。中でも涙を誘ったのは男鹿半島の海岸に遠足に来ていた小学生13人が幼い命を失ったことです。
以下、山下文男氏の「津波てんでんこ」(近代日本の津波史)PP.177-178、新日本出版社(2008)より引用させていただきます。
『海岸から車で2時間もかかる山村(北秋田郡合川町:現北秋田市)の合川南小学校の4年生と5年生の学童45人が「美しい海を見せたい」との教師や父母たちのはからいによる遠足で、男鹿半島の加茂青砂海岸に到着したのは、地震(午後0時0分18秒)の直後であった。そのとき、子供たちを乗せた2台のマイクロバスは、急な坂道を海辺に向かってゆっくりと下りはじめていた。バスは激しく揺れたが、それが地震によるものだと知ったのは、地元の人達が、地震だ!と叫びながら飛び出してきたり、墓石などが揺れるのを見てからであった。バスが止まると、子供たちはすぐ降りようとしたが、先生や付き添いの大人たちは、地震が気になるので相談して全員を車内に留まらせた。しばらく海の様子を見ていた。だが、海は青々と、綺麗で静かだった
「ようし、出よう!」
リュックを背負った子供達は5mを超える防波堤の階段を降りて、岩場もある海辺に腰をおろし、喜々として弁当をひろげはじめた。
あっという間の事であった。突如として水面が盛り上がるようにして海が迫ってきた。これが津波だと考える間もなかったという。
「帰れ!逃げろ!」
上で見ていた地元の人達が叫んだ。然し、もう遅かった。避難階段はそこにないし、高くて飛び上がることも出来ない。子供達も先生たちも一瞬、波に叩きつけられてしまった。激浪の中にそのまま消えていく子、必死になって泳ぐ子、防波堤の上の人達がロープを投げ、竿や板きれを出した。
子供たちの所まで届かないものもある。それにつかまる子、つかみそこねてそのまま沈んでいく子、すべてが津波特有の瞬間的な惨劇であった。地震の発生から約十分後のことであった。
その頃、気象庁はまだ津波警報をだしておらず、テレビにもラジオにも警報が出ていなかった。
間に合わなかったのである。
こうして、美しい海岸でたのしい一日をという思いやりある遠足が、一転して悲しい出来事と変わり、いたいけな子供達13人の命が奪われた。
奇跡的に命拾いしたある子供は「もう海には行きたくない」と語ったという。』
このとき、あの「稲むらの火」の教材が教科書に残っていたならこの悲劇は防げたかもしれない、という声が聞かれました。この物語はぜひ後世に伝えていきたいものです。
災害列島日本の地盤を探る 前野昌弘
☆☆☆
災害は忘れたころにやってくる。
津波の怖さを伝えるものが「稲むらの火」ならば、戦争の悲惨さを子供に伝えるのは「はだしのゲン」
同じことを繰り返さないように、後世に伝えていかないといけないんだ。