三国志の時代、諸葛亮孔明が「川が荒れているのを鎮めるために人柱を立てて、川の神に人の首を切って捧げなければならない」という当時の風習を改めるため、小麦粉で作った皮に牛と羊の肉を詰めたものを人の頭として捧げたのが饅頭と言われていて、日本では奈良饅頭が最も古いといいます。
頭という漢字が入っているのはその名残とも言われ、自然の怒りを鎮めるにはこれほどの代価を払うべきだという考えだと思います。
日本ではお供えに野菜なども捧げますが、ニンジンに包丁を振り下ろすときには罪悪感を持ちにくいものですが、
それがもし、スズメであっても息のあるものに包丁を振り下ろす時には、野菜の時と違った気持ちになりますし、血も流れます。
神の完全な義は罪に対して「いいよ。それくらい。」とあいまいにする事が出来ません。
完全な神は罪に対して完全な贖いの血を求めておられます。
イエスは神の前に完全な捧げものとしての子羊として呪われたものとして木にかけられました。
その子羊の皮の衣を着せて頂いた者は罪許されるだけでなくイエスを着たのですから「神の子」として父の家に招かれます。
例えば皆さんに、可愛い娘がいたとします。
その娘を下さいという男が現れて「そもそも養っていけるのか。仕事は」と聞くと
「屋です。」と言われたらどうでしょうか?又は自分の息子がその職業を始めると言ったら(もちろん私はOK。自分でもやる気もありますが)。
実際”教えて!goo”にも
「結婚を考えている彼の実家は食肉卸業を営んでおり、と殺から肉屋へ卸すまでを行っています。うちの家族からは ト殺をする人をよりにもよって何で選ぶんだ。と
言われ、絶対別れろと聞く耳をもたれません。彼の人柄はこの際どうでもよく、その行為自体を許せないのです。
正直、私はと殺について、そこまでアレルギーはありませんでした。えたという問題にまでなってしまうとは思いませんでした。
同じような環境にいる人、率直な意見を教えてください。」
その後の返答でも
「悲しいことに私の親族は皆同じ考えだと思います。
母親は特に世間的なイメージを気にしており、有名商社、企業に勤める男性=娘の結婚相手という考えに固執しています。私もできるだけ、偏っている考えのことを両親(兄も含めて)へ伝えたのですが、
「自愛の心があれば、そんな職業を選ぶはずはない」と 全く歩みる気配もありません。
親と彼をどっちを選ぶの。と泣かれて、と殺をやってることを何も思わないなんて感性が狂っている。と散々言われました。
彼の家をそこまで蔑む権利は家には無いはずで、そんな考えの家庭の娘と一緒になることは、彼にとって不幸せになるのでは?と思い始めています。」
以上抜粋させていただきましたが、、
人は理論的な生き物と言うより感情的な生き物といえるかもしれません。
確かに屋はインパクトのある職業です。
ナイフ作りの時一緒だったお兄ちゃんは名前より「屋のあんちゃん」という呼び名になってました。
「復讐は私がする」と言われる神はある意味では屋とも言えます(生かし屋でもありますが)。
アメリカでは者は報酬とは別にその皮の権利を得ます。
歴史上初めてをおこなったのは神であり、その皮の衣ををアダムとエバに着せました。
どの様な衣だったのかは詳しく書いてありませんが、私はいわゆる”原始人”的なモノでは無いと思います。
野の花にさえ必要以上と言ってもよいほど装われる主には、手抜きはありません。
オートバイのレースなどでは今でも皮の衣を着ます。箱の中に入っている車と違ってバイクでは転倒が避けられないからです。
(去年の春、家の前で撮った写真です。懐かし~)
強度、耐摩耗性、しなやかさ、撥水性、操作性、など一つ一つでは人口の素材は天然の皮を凌ぎますがトータルでの安全性では皮が一番優れているからです。
皮には大体、牛、馬、豚、羊、鹿などありますが子羊が最も着心地が良いと言われます。
私たちは気をつけていても間違いをおかす事やなんでもないモノに躓いたり、十分準備していても足りない時もあります。
「正しい人は7回転んでもまた起き上がる。」
起き上がる事が出来るのは、”正しい人”いう衣を着ているから、転ぶ時何よりも先に衣が打たれ傷ついていく、私以上に私の着ている子羊の衣はボロボロです。でも私を守る事それが衣の役目でもあるので一度も「何故、転んだのだ!」と言われた事はありません。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」とあります。
神が与えてくださる衣は完全で私たちの恥を覆ってくれる完全なモノです。