恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第三章 天上界への道
◆生き地獄とあの世の地獄◆
先の続き・・・
昔から地獄というと、餓鬼界や阿修羅界など、
その苦しみの思いの種類によっていくつかに分類されてきました。
たとえば、「足ることを知る」ということを忘れ、貪欲に溺れれば、
その思いは自ずと餓鬼界へ通じていきます。
また、権力闘争など争いの思いは阿修羅界へと通じていきます。
これら二つの地獄は、人間の煩悩にうちでも最も気をつけなくてはならない
自我我欲の思いと自己保存の思いが原因となって現れてくるものです。
「残水の小魚 食を貪りて時に乾くを知らず」という諺が仏典にあります。
川の水が引いた後に残された水たまりの浅い水にピシャピシャと小さな魚たちが
尾びれを動かしながら群れて、餌を奪い合っています。
雨も降らず、もうじきに水が干し上がってしまおうとしているのに、
そのことにさえも気付かずに食を漁り貧ぼるのに夢中になっております。
「残水」とは余命のたとえです。
人間でもいろいろな欲望を追いかけて、
もっと財産や土地や家を手に入れたいと躍起になっているうちに、
だんだんと死が近づいてくるのですが、それにも気付かず、自我我欲に
とらわれたあさましい姿とその運命をうまく言い表わしたものです。
私は二十歳の頃からこれをすごい言葉だなあと思っておりました。
人間はみんな足ることを知らないでいつまでも欲望にとらわれて右往左往している。
そして、やがて死ぬということも忘れている、なんと浅はかなんだろうと考えたり、
仕事仲間のうちで友達がいじめられ、
根性悪くされるのを見てもとてもつらい時期があったし、
人の死を多く見せられたので、
なおさら実感をもってこの言葉の意味が胸に入ってまいりました。
あってもあっても充足しない心は、そのまま餓鬼界の意識につながっていきます。
「糞中の穢虫 居を争いて外の清さを知らず」
という諺も私たちに人間世界における真実を示してくれています。
政界や宗教界において組織の中で自分の地位を確保しようとポスト争いをする様が、
ウジ虫が糞の中にありながら互いに居場所を争っている様子にたとえられています。
権力闘争の思いは、事後保存の欲望や自我我欲の欲望から来るものです。
互いに自分の地位を守ろうとし、また相手を失脚させて望む権力の座におさまろうという
権謀術数が渦巻く世界にあって、やがて対立闘争の思いはカルマとなって、
阿修羅界に通じてゆきます。
そんな心の休まる暇もない世界を一歩外に踏み出せば、清らかな世界があるとも知らずに、
自らの煩悩の火で自らの心を苦しめていきます。
~ 感謝・合掌 ~