浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2017-11-30 23:53:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


                 第三章 天上界への道

         ◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆

神様は私たちの目には見えません。
しかし、目には見えなくても神様を知る方法はあります。
それを神様ご自身が教えてくださっているのです。
そのことは、
神様のおおせられる御言葉によってよくわからせていただけます。

我は姿あって姿なし
姿あっては天地自然・万象万物の中に我が姿を見よ
姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ
汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ
姿なき汝らの神我となりて、我は証しせん

二行目の天地自然・万象万物とは、山や川や草木や動植物、
そして星々や月や雨や風など、あらゆる自然、命あるもの、
天象の一切を言います。
たとえば、初夏の青々とした稲田のひとつにしても、
ある人はその美しさを俳句に詠み、
また或る人は私たちの命を育んでくれるお米とそれを作る人々に
感謝をしたい気持ちに駆られることでしょう。
その美しいなあと思う心とありがたいなあと思う心と同時に、
私たちはその美しさやありがたさを与えてくれる稲田の奥に神の御心を
見出すことができます。

「なんだ、ただの田圃じゃないか」と、
それを見てもなんとも思わないことだってできるわけです。
しかし、美に感動し、生命の糧に対し深い感謝の念を抱けるほどの微妙な
波動の心になれば、自ずとそこに目には見えないけれども、いや、
目に見えないからこそ、それだけ厳かな気持ちとともに、
尊い神の存在というものを感じないわけにはまいらなくなるのです。
雨の音に神の足音を聞き、風の中に神の声を聞く。
形あるものをただ形あるものとして見ることができないうちは、
神を知ることも難しく、この世の表面の出来事とかお金などに引き回され、
翻弄されて生きなくてはならないので、
人間はなかなか救われません。


              ~ 感謝・合掌 ~




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「御垂訓」

2017-11-30 01:07:03 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


            第三章 天上界への道

     ◆癌の激痛から悔い改めて安楽往生した九十歳の老婆◆

先の続き・・・

二、三年もしないうちにその時はやってまいりました。
息子さんが「やっぱり先生の言われたとおりです。
もう癌で入院させているんですが、苦しんで痛がってたいへんです。
お医者さんが痛み止めを打ってくださっても効かず、転げ回るんです。
子としてこんな辛いことはおまへん。なんとかしてください」とおっしゃるのです。
「しゃあ、どのテープでもよいから持っていって聞かせてあげてください」と言うと、
「でも、そんなテープを聞ける状態と違います」と言われます。
確かにその苦しみというのはたいへんなようで、頭髪をかきむしってしまったり、
俯せで痛みを耐えるために畳をかきむしり、
畳の中の藁をみんな引っ張り出してしまったなどという話もあります。
病院のベッドの周囲の金属のパイプを曲げてしまう方もおられるそうです。
それほどの痛みがおばあちゃんにも襲ってきたということです。
そこで、聞いても聞かなくても、
とにかくそのおばあちゃんの耳元で私のお話のテープをかけてもらうことになりました。

すると、一時間もしないうちに痛みはすうっと消えてしまいました。
おばあちゃんは、「己が悪かったんじゃ」と言って泣き叫んで、
「神様かんにんしてください。
己の生き方が間違っていました」と泣いて泣いて詫びられたのです。
そこへたまたま本家の兄さん夫婦が見舞いに来られまして、部屋に入るやその声を聞き、
「このクソ婆は死ぬ時になってもまだお前が悪いと言っている」と言って、
夫婦で顔を見合わされたそうです。
しかし、弟さんが「いやいや、兄さん、違うんや。
このテープをかけると痛みがなくなり、自分が悪かった、
かんにんしてくれなはれと泣き出したや」と説明しました。
兄さん夫婦も、それはよかったと喜びました。
それから、まったく痛みも苦しみもないまま三日間安らかに過ごされて、
四日目に安楽往生なさいました。

おばあちゃんは、「有難うございました」と言って、
安らかに亡くなられたということです。
そして、驚くべきことにそのおばあちゃんの皺だらけのお顔が、
皺一本ないツルツルのお顔になられたということです。
この出来事で思いました。
人間は、たとえ九十年もの間、間違った人生を送ってきても、
その死の間際に法に触れて自分の間違いに目覚め、
「えらい間違いを犯しました。どうぞゆるしてください」と必死で
お詫びできたら、必ず赦していただけるということです。
安らかなお顔で皺がなくなったのはその証しです。
法とはまことに有難いものだと思います。
しかし、よいことを聞いたといって死ぬまで好き勝手に生きて死ぬ前に
お詫びすればよいと思わないでください。
私の話を聞いた以上、ご自分の良心が自分を責め裁くことが起きます。


            ~ 感謝・合掌 ~


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