恩師の御著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第二章 必要なのは正しい生命観の確立
◆心の重量と行き着く先◆
地球がこの宇宙に誕生して四十六億年と言います。
そのうちで人間がこの世に生きていられる時間は、わずか五十年、百年の間です。
電子顕微鏡で見ても見えないくらいの小さな瞬間のはかない存在が人間というものです。
形あるものは時間の制約の中での現れにすぎず、実体を持ちません。
かげろうのように現れては消えていくこの世のあらゆるものの中にあって、
私たちの肉体も人生も例外ではありません。
そして何一つあの世に持っていけるものはありません。
そこで、唯一確かなことは仮の宿であるこの世いる間、
私たちの心というものがどういうものがどういう状態であるのか、
それだけが次の世界に移る時の天国と地獄の分かれ道となります。
私たちは本来、心とか意識として存在しているものであり、
「この世」と「あの世」とを往復している生き通しの存在です。
肉体は「この世」で使用済になれば、脱ぎ捨てるようなものです。
ほんとうの自分は痛くもかゆくもないものです。
ところで、その方の思いがどんな状態か、言葉がどんな状態か、行いがどんな状態か、
それによって人それぞれに違ういわば心の重さとでも呼ぶべきものが決定されます。
それがまたその人の置かれている境遇に影響してゆきます。
まず、風船のようにごく軽い心なら、この現象界の一定の上下幅の範囲内で、フワフワと
最上層のほうに浮かんでいます。
よく「足どりも軽やかに」とか、「心弾み、心踊る」とか、「手の舞い足の踏む所を知らず」
とか、「欣喜雀躍」などと言った慣用的な表現があります。
すべての喜びのあまり舞い上がりそうな軽快な心の状態、
はじけそうなエネルギーに満ちた明るい心の状態を言い表した表現です。
いつも喜びや感謝に心が満たされて日々の生活を送っていらっしゃる方は、
心が軽いので上のほうに浮かび上がっています。
心が常に安らかで人の幸せを願い、そのために人々に喜びを与え、
人々の幸せのために奉仕する人です。
~ 感謝・合掌 ~