恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第三章 天上界への道
◆天上界は本当にあるのか◆
どんな方の心にも仏の心と鬼の心とが同居しています。
鬼の心は、「己心の魔」であるエゴの自我我欲や自己保存などの
想念がだんだん膨らみ、恐ろしい姿に変貌したものです。
心にスキがあると、そこに「魔」(「間」)が入ります。
自己反省を怠らぬことです。
悟った方とふつうの人との違いは、ただ、心の隙間に気をつけ、
鬼の心をいかに自らの心の内に迎え入れないかということを知り、
これを行ない得たか否かという点だけです。
神様はなぜ地獄をお造りになったのでしょうと、
かつて質問を受けたことがありましたが、
神様は地獄など造られてはおりません。
心の鬼とは、自分さえよければいいという思い、
自己保存や自我我欲の思いから来ます。
心の鬼に支配されると、人のように恐ろしいことや残酷なこと、
恥知らずなことまでも平気でできてしまいます。
もはや本来の自己は失われています。
こうした神様の御心から離れた心を、
人間は肉体の五官に翻弄されることで生み出してきてしまったのです。
もともとは清浄で素直だった神の分け御霊そのものの心を曇らせ、
その黒雲のような想念が、
あたかも地獄のような苦しい世界を現出してしまうことになったにすぎません。
神様は完全無欠な存在です。
神様は太陽の熱と光のような無償の愛、無条件、無差別の愛と慈悲と赦しを
私たちに降り注いでくださっているのですから、
もし、私たちの心にその愛の光を遮るものさえなければ、
誤りも欠乏も苦しみもない素晴らしい世界が眼前に展開してまいります。
ふだんでも、心になんの不安も恐怖も怒りも寂しさもなんらの執着も無い時、
私たちの心は静かです。
そして、心を縛り煩わせる思いがない分、心は自由です。
その状態で感謝しながら亡くなりますと、軽い心はたちまちにして天上界に行きます。
そこは、別の意味でも自由です。
というのは、自分の望むものがなんでもすぐに現れる世界だからです。
仮に今ここで綺麗な花を生けていただき、あの世に帰ってから、
「あの時、綺麗な花を生けていただいたなあ、もう一度みたいなあ」と思いますと、
この花がパッと出て来るのです。
「あの時のカレーライスはうまかったなあ。
あれをもう一度味わいたいなあ」と思いますと、
パッとカレーライスが出て来ます。
これは何も私たちの夢や願望の投影というのではなく、リアルな世界として、
実在の世界としてまぎれもなく在るということです。
そこを私たちは天上界とかあの世と呼ばせてもらっています。
実際に亡くなられると浄まった魂の方はそこに行かれます。
また、生きながらにして山紫水明のお花畑の美しいあの世に行ってこられたという
臨死体験をされた方の話もよくあります。
~ 感謝・合掌 ~