浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2017-11-26 23:57:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第三章 天上界への道

           ◆生き地獄とあの世の地獄◆

たった今幸せであったとしても、
次の瞬間に心を苦しめてしまいますと、
心は極楽から地獄へ一挙に転げ落ちてしまいます。
それが長く続き、苦しみの程度が甚だしければ生き地獄ということになります。
ふつう地獄と称せられるあの世の苦しみの世界は、
肉体がなくなってもなお意識がけが存続し、
生きている時の苦しい心の状態を持ち越したまま、別の次元に移行した時に、
自らの思いによって展開されてくるものにほかなりません。
宇宙の運行が一秒たりとも休まず、自然界が変転すること絶え間のないように、
人間の心と身体の細胞組織も一瞬毎に変化しています。
それらが発する波動が常に変化しているとも言えます。
もう怒りっぽい自分は克服できたろう、もう大丈夫と思っていても、
何かの縁に触れてまた激怒してしまったなどということは誰にでもありそうなことです。

不調和な思いの波にさらわれ、低い所に転落することから自らの心を守るためには、
出て来た嫌な思いや辛い思いをできる限り早く切り替えてしまうことです。
そうすれば、まず生きながら味わう生き地獄に喘ぎがなくなります。
魂の修行の場としてのこの世で出会う人々や起きる出来事の縁に触れ、
様々な課題や試練に遭遇することになります。
けれども、それらを乗り越えて行く時、今迄どうしても乗り越えられず、
自分が直そうとしても直らなかった癖や欠点などがやがて修正できて、
それが自信につながり苦しみは喜びとなります。
私たちは偽我の本当の姿に直面するのを恐れています。
そして、社会で人から期待される、
それぞれの人から都合がいいと見られる自分であろうとして、
仮面をかぶり、偽りの人格をまとってしまいます。
それでいて、自分の嫌な面や醜い面は人から見えないところに押し隠しています。
それが潜在意識にたまり、汚れや曇りとなって心の輝きを失わせてしまいます。
生きている間に真実の自己の姿に直面して、精一杯魂を浄化すべきです。


               ~ 感謝・合掌 ~





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「御垂訓」

2017-11-26 01:34:44 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

    恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より


              第三章 天上界への道

           ◆本当の神は罰など当てない◆

「神のみ名において赦しません」などと戒める宗教がありますが、
そんなことは絶対にありません。
神の心の中には責め裁く思いはありません。
太陽の心と同様に、神の心は無限の赦しです。
ただし、私たちの心は人に嘘をついても自分自身に嘘をつくことは決してできません。
良心があるからです。
この良心が私たちが罪過ちを犯した時、人は誰も知らなくとも自らを責め裁きます。
私たちが罰を恐れるのも、私たちの思いの中に自らを責めたり裁いたりする心があるからです。
しかし、それが悔い改めて真理に目覚めるためならいいのですが、
ただ不必要に自らに罪悪感を背負わせるためにだけ、自らを責めさいなみ続けるのなら、
これも一つの業であり、心に潜む魔です。

その時、自分の心は必ず苦しむはずです。
また、責める対象が他人であってもやはり自分の心は苦しみます。
もちろん、この場合相手の心にまで苦しみを与えてしまいます。
その結果、自分の心を暗くし、人様の心をも暗くしてしまいます。
そして、同時に心は重くなり、光の量は減ってゆきます。
それはなぜかというと、神の御心にない心というには、
光に対する影となって心に闇をもたらし、光の量を減らすからです。
自分の心が明るくならなければ、いくら宗教をやってもなんにもなりません。
正しい法を実践すれば、正しいものの見方と正しい心の持ち方と正しい言葉の話し方と
正しい行いというものが、その人の身に必ず現らわされてきます。
古い人格は消え去り、
それまでとはまったく違う生まれ変わったかのような神の子としての本来性が現れてきます。
神様は、「己自身を苦しむることなかれ、己を愛し、己を愛するが如く他を愛せよ」
とおっしゃいます。

そしてまた、「汝らの喜びは我が喜びなり、
汝らの苦しみは我が苦しみなり」ともおおせられます。
「我が心と汝らの心と想念行為を照らし合わせよ、
もし我が心と離れし箇所に気づかばそれを悔い改めよ、
その時、汝らの魂は浄まれり」というのが神の御心です。
私たちの誤まてる行為さえも神様は大きな心で赦されておられるのです。
いつでも自ら間違いを反省によって知り、悔い改め、
つぐないの行為によって挽回するチャンスをくださっています。
だから、やり直しがきかないということも、罰せられるということもありません。
自分の失敗なり過ちを素直に悔い改めて、
二度と再びその間違いを犯さないようにすればいいのです。
「人は先に過ちを犯せども後に過ちを犯さざれば、その人の世間を照らすこと、
雲を離れてひとり輝く満月の如し」という仏典の言葉があります。
現れては消えて行く実体のない現象界の出来事にいちいちとらわれることなく、
過ちを繰り返さぬ前向きな努力をしていけば、過ちを犯して、
それを自覚したがゆえにかえって新しく生まれ変わり、
今度はより立派な人格となり、世間の人々に光を放つ存在となれることです。
希望を与えられる言葉だと思います。


内奥の神の御心罪深き この身を通し示す現わす。
我が行為 神の御心あらわさん 父(神)の御心世に示さんがため

                               
           ~ 感謝・合掌 ~




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