第5話 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その1)
工学部は何を目指すか、中島尚正編、東京大学出版会(2000)には、多くのことが書かれている。編集委員には当時の小宮山教授など30名の錚々たる名前が列挙されているので、この内容についてコメントをすることは、なんとも気が引ける。しかし、メタエンジニアリングの見方からは、やはり大きな疑問を感じざるを得ない。
「工学部は何を目指すか」のテーマに対する第1場は、1968-69の所謂東大紛争であろう。編集者の中島さんも私も、当時その大学の大学院に在籍をしていた。そして、その期間中に全く新たに、機械系大学院自治会などというものを組織して、数名の教官とともにこの問題について議論を重ねたことが思い出される。その際の主なテーマは二つで、①工学部からの社会への発信は如何に考えるべきか、②学生が学部の建物の全面封鎖を実行する際に、我々はいかに対応すべきか、であった。その時の議論の詳細は別途に譲るとして、この直後のことがこの書に記されている。
第1場 1968-1970 (P300からの引用)
「真摯に議論を重ね、将来ビジョンをまとめるという作業は、実は今回が初めてではなく、東大紛争以来の出来事です。紛争中、それに続く百家争鳴の時期に、工学部教官によって書かれた数多くの文書は、「新しい工学部のために」(東京大学出版会、1969年)、「工学部の研究と教育」(東京大学出版会、1971年)という2冊の本に収められています。その後半には、紛争に関する興奮した論述や理念論を離れて、冷静な分析にもとづき、工学部のあるべき姿、改革への提言が述べられています。その中から、いくつかの文章を紹介します。
工学部が今後の社会においてますます比重を高めてゆくことを考えたとき、社会に対して開かれていない工学研究というものはありえなくなる。(・・・)しかし、このことはいたずらに有用性、実用性を重視した研究を行うことを意味しない。近年における個々の技術の発展が生み出した種々の好ましくない波及効果の累積は、工学のあり方に多くの新しい問題を生み出した。この様な技術の発展に置ける予定調和性の喪失にいかに対処すべきかを考え、工学研究の対象をあらゆる人間活動の場に広げるという意味で社会に開かれた研究が今後の大きな方向になる。このことはまた従来の学科中心のあり方からははみ出す種々の境界領域を積極的に開拓することの必要性につながる。
科学と工学の進歩は人類を幸福にするという信仰が、妄想に堕しつつあるときに、工学者は工学を越えた次元からの問いかけに、答えるように要請されている。このことは、専門の工学教育において、その社会的波及効果をも研究対象にくり入れて考慮すべき責任が生じつつあることを意味する。また、従来の専門工学の境界を越えて、他の学問分野と必然的に関連することを予想させる。(・・・)「工学を越える工学」を志向し、混沌の内より、新しい体系を創造しようとすることこそ、今後の工学研究の基本的命題であろう。」と記されている。
さて、最後の「工学を越える工学を志向し、混沌の内より、新しい体系を創造しようとすること」は、メタエンジニアリングということはできないであろうか。私は、この時点の問題は、この様な新たな体系を模索する中で、具体的には境界領域のみを志向したところにあると思う。そして、そのときに産まれた多くの境界領域は時代の流れとともに、本来の「この様な技術の発展に置ける予定調和性の喪失にいかに対処すべきかを考え、工学研究の対象をあらゆる人間活動の場に広げるという意味で社会に開かれた研究が今後の大きな方向になる。このことはまた従来の学科中心のあり方からははみ出す種々の境界領域を積極的に開拓すること」から次第に離れて、再び従来の学科と同じ専門化の道を進んでしまったのではないだろうか。アリストテレス的により総合的、根本的な方向に向かえば、工学はもっと社会から信頼を得られる方向へ向かったように思う。
第2場 1999-2001
この時代は、この書籍の題名にある著書が纏められた場に相当する。
この書の「終わりに」に、次のような結論が書かれている。前節の第1場の主張を紹介した文章に続けて、「本書における主題と驚くほどに完全に一致した主張を20年前の文章に発見し、なんとも不思議な気持ちにさせられます。(・・・)現れる言葉は同じであっても、「社会」の意味するところは時代によって変わってゆきます。富国強兵の時代における「社会」は国家であり、戦後復興・高度成長経済のときの時代における「社会」は産業でした。いま、時代は産業のための工学から、個人の集まりとしての社会とともに歩む工学に変ることを求めている。それが本書の生まれた背景であるかもしれません。」
この文章は何を示唆しているのだろうか。20年前の提言が実行されなかったことを意味するのだろうか。更に、次の10年、20年を見据えたときに、今回の提言が20年前の提言と同じ結果を生み出すとの予言なのだろうか。学問としての工学と、実学としてのエンジニアリングの大きな違いを強く感じてしまう。
第3場 2010の 3.11東日本大震災と福島原発事故の直後の提言
福島原発事故の直後に、前節とほぼ同じ陣容のグループから冊子が発行された。東京大学大学院工学系研究科「緊急工学ビジョン・ワーキンググループ」から「震災後の工学は何をめざすのか」という題名であった。
1. 今問われる工学の使命と役割― 諸君の挑戦こそが未来を拓き築きます ―
3)工学者としての見識からの文章を引用する。
「私たち工学部・工学系研究科で教鞭を執り研究を進める者は、工学者として直面する課題を正視し、深く客観的に原因を究明して課題を整理し、冷静な判断の下に適切な計画を立案し、工学者として見識を示す必要があります。その見識は純粋に科学技術に立脚した中立なものでなければなりません。その上で、社会や産業と密接に関係した工学は、様々な状況に置かれている様々な人々の考えや意見にも謙虚に耳を傾ける必要があります。科学技術で国の礎を築く大学の役割、少なくとも工学部・工学系研究科の役割とはそういうことと認識しています。
(中略)
5. 工学の新しい潮流
工学は現代に至るまでに伝統的とも言うべき基礎基盤工学の学問領域と、特定のシステムや対象を取り扱う総合工学と言うべき学問領域に発展してきました。基礎基盤工学としては電気、機械、物理、化学、材料、情報、土木、建築などが相当し、総合工学は原子力や航空、都市などが代表的です。今回の震災とそれに続いた原子力発電施設の事故や電力供給危機は、改めて基礎基盤工学と総合工学との関係について考えさせられます。例えば、総合工学の典型である原子力工学は物理、化学、材料、電気、機械、建築、土木など様々なディシプリンdiscipline を内包していますが、これらのディシプリンは基礎基盤工学では伝統ディシプリンとしてそれぞれ存在しています。この互いに対応しあうディシプリンは今回の事故に対してうまく連携できていたのでしょうか。第三章を読むと、その連携は必ずしも十分でないことに気がつきます。本章では、震災を契機に、工学の在り方を改めて 見つめ直し、レジリアンス工学や緊急対応工学など将来に向けた新しい工学の潮流について考えます。
(中略)
5.1 学際化する工学研究の課題
5.1.1 学際化する工学研究と巨大化する複雑系研究対象
基礎基盤工学と総合工学の関係は学際領域 interdisciplinaryや複合領域 multidisciplinaryと言う言葉でここ20年くらいの間で急速に意識されはじめました。学際領域や複合領域とは、学問の領域が伝統的な一つの基礎基盤工学のディシプリンに収まらずに、複数の学問領域が融合しあったり複合しあってできる新たな学問領域のことを意味します。そして、一度確立した学際領域や複合領域は自立して総合工学として発展していくものもあります。例えば、原子力工学は半世紀前に学際研究として誕生し、その研究対象であった原子力発電システムは巨大複雑系システムに発展し、原子力工学は学際化した巨大複雑システムの工学として進化してきました。こうして工学は時代に即して、あるいは時代の課題に即して、様々な総合工学の学問領域を作ってきました。こうした柔軟性が工学という学問領域の特徴ともいえます。さらに、学際化や複合化は今や総合工学だけでなく、礎基盤工学の各領域自身でも起こっているといっても過言ではありません。先端研究では学問の学際化や複合化がどんどん進んでいます。
問題は5の「その連携は必ずしも十分でないことに気がつきます。」というくだりだ。さらに5.1.1で「基礎基盤工学と総合工学の関係は学際領域 interdisciplinaryや複合領域 multidisciplinary と言う言葉でここ20 年くらいの間で急速に意識されはじめました。…………」
このような説明があるのだが、長い間、充分でなかったものが、課題として上げることによって果たしてどの程度に充分になるのであろうか。もっと、さらに根本的なところにまで進むべきではないだろうか。「融合しあったり複合しあって」といった表現で、すまされることではない。必要なことは「連携」からいったん離れて、真の「融合」と「統合」である。真の「統合」「融合」は、一つの開発チームの中のことであり、一人のエンジニアの頭の中のことである。
このことを、私は1990年当時のGE社とUnited Technology社から学んだ。実際の新型エンジンの開発チームの組織に対する考え方が従来と全く変わったからである。それまでの開発チームは、所謂臨時のプロジェクト・チームであり、関係各部署の代表者の集まりであった。当時、米国の数社で始められたCOE(Centre of Excellence)という考え方は、代表者の集まりではなく、独立した権限を持つ恒常的な新組織であった。
専門のオフィスを持ち、専門の工場を持ち、その全ての運用に対して独立した権限を持つと云うものであった。そして、多くの独立組織のトップには若手の有能な人材が充てられた。