生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(10) 第8話 設計に対する態度とメタエンジニアリング

2013年09月14日 20時21分07秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts

第8話 設計に対する態度とメタエンジニアリング

・戦略と戦術の違い

 一般的に、日本人は発明・発見はあまり得意ではないと言われている。一方で、応用の得意な人は沢山いる。設計は、創造的だが応用面も多い。だから日本人に向いている。長い間の経験から、欧米人と机を並べて設計をしていると、同じ経験度なら日本人のほうが優れた設計を短時間で完成させることができることを知った。しかし、それでは単なる便利屋になりかねない。日本人が戦術に長けていることは、多くの現場で証明がされているのだが、そこには、戦略と云う言葉は存在しない。
 
国際共同開発の開発設計を長年続けて先ず思うことは、設計に対する概念の違いである。即ち、設計という行為をある目的を達成するための、戦略と見るか戦術と見るかである。勿論、最終的には目的達成のための戦術と戦闘の勝負になるのだが、出発点をどこに置くかである。日本人的発想は、ある新しいものを想定してそれをイメージするところから始まる。即ちWhatとHowである。一方で、近代技術による設計の歴史の古い西欧人の設計は、Whyから始まる。「何故、今我々はこの設計を始めるのだろうか」といった問いから、スタートの時期と目標が定まってゆくのだ。従って、具体的にはP.L.(Program Launch)のタイミングが重要な転換点となるのだが、日本の場合は、このことがひどく曖昧である。しかし、一旦スタートをすると、全速力でまっしぐらに突入して、早く成果を上げることができる。一方で、スタートが曖昧なので、途中での方向転換などが旨くできない。

設計がWhyから始まる例として、最近頻繁に挙げられるのが、ダイソンの扇風機である。あの羽根の無いスマートなものだ。この設計は、「何故扇風機には羽根が必要なのだろうか?」と言ったところから始まっている。しかし、この例はメタエンジニアリングというよりは、むしろ価値解析(Value Analysis)の分野である。つまり、扇風機における羽根の主機能は何かを考え、その機能を達成するための他の方法を色々と考えて、価値工学(Value Engineering)により、新たな設計解を得るという方法の適用と考えるのが、妥当であろう。

しかし、Design by ConstraintsとDesign on Liberal Arts Engineeringの関係で考えてみるとどうであろうか。前者では明らかに最初から戦術思考に突入する。つまり、設計条件を満たす最適解を見つけ出すことである。一方で、戦略を考えようとすると、それは自動的にLiberal Artsの領域に踏み込まざるを得なくなるのではないだろうか。
 戦術で勝ち続けても、最後に戦術で負けると云う失敗は繰り返したくないものだと思う。

 このことに関連して良く引用されるのは、太平洋戦争中のゼロ戦の話しだ。空中戦で連戦連勝だったゼロ戦は、機体重量の軽減のために、薄い鋼板を用い、エンジンも小さめであった。これに対抗する戦闘機として、米軍は大出力のエンジンを搭載したグラマンを大量に生産して、上空から一気に急降下する戦術を立てた。ここまでは、戦術の話であろう。そこで米国が考えた方策が戦略である。米軍の戦術を可能にするには、同じ性能の航空機が大量に必要である。すなわち製造過程における徹底した品質管理手法の開発であった。日本の戦闘機はエンジン部品ですら他のエンジンからの流用が利かなかった、との話は有名である。また、単発機は優れているが、4発機はエンジンの回転数がばらばらで、旨く操縦すらできなかったとも聞いた。
 いまでこそ品質管理は科学的な論理の塊のようなものだが、当時は寄せ集めの人材を急こしらえの工場で作るわけで、品質管理の面でもLiberal Artsの諸分野が必要であったことに疑問の余地はない。


「 日本人のための戦略的思考入門」孫崎 享著、祥伝社(2010) には、こんな記述があったので、いくつかを引用させていただく。



・「日本人は戦略的思考をしません」と、キッシンジャーは小平に言った。
戦略感は一夜にしてできない。異種の多くの人と交わり、異なる価値観に遭遇する。それによって外部環境の把握がすすむ。
・マクナマラ元国防長官(ケネディー大統領時代)の戦略理論(主に、経営戦略に応用される)は、ニーズの研究段階(いかなる環境におかれているかの外的環境の把握、自己の能力・状況の把握)⇒企画段階(目標の提案⇒代替戦略提案⇒戦略比較⇒選択)⇒計画段階(任務別計画提案、計画検討⇒決定⇒スケジュール立案)
・ゲーム理論におけるナッシュ均衡とは、「各プレーヤー全員がゲームで選択する最良の選択は個人が独立して決められるものではなく、プレーヤー全員が取り合う戦略の組み合わせとして決定される」

 断片的な記述で恐縮だが、これらの多くの場面でもLiberal Artsが必要であろう。




メタエンジニアリングとLiberal Arts設計(9) 第7話 メタエンジニアリングを適用すべき「場」について

2013年09月14日 09時07分20秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第7話 メタエンジニアリングを適用すべき「場」について

メタエンジニアリングが必要とされる場の条件とは何か。それは、第1にメタエンジニアリング特有の「場」であること。メタエンジニアリングと似たような主張や論理は、既に数々存在する。特にイノベーションに関しては、MOTの名のもとに、多くの提案が既になされている。それらとの違いと特徴ある有用性を明らかに出来る「場」でなくてはならない。
第2に、従来の工学やエンジニアリングでは大きな失敗があったり、不充分であった問題や局面が存在する「場」であること。そこには、従来の専門分野からの眼だけでは、明らかな問題が存在した。それらは顕在化されているものもあるが、潜在している問題も多々あるはずである。
第3に、メタエンジニアリングで解けそうな期待が持てる「場」、などであろう。

第2の観点からは、最近かなり明確な問題が続出した。
① 福島原発事故に代表される、「むら」という言葉で表される、専門家の閉鎖集団が原因とされる問題
② 笹子トンネル天井版や、瀬戸大橋の梁のクラックなどで明らかになった、設計時点における寿命とメインテナンスへの配慮不足の問題
③ ローマクラブの指摘以来、それにも拘わらずに半世紀に亘って悪化の一途をたどっている、地球環境問題
などである。

 これらを例に、メタエンジニアリングの特徴をあて嵌めてみよう。メタエンジニアリングの特徴は、「専門領域に分化された科学・技術(人文科学・社会科学を含む)と芸術など諸領域を統合・融合して問題の新たな解決策を見出すこと」である。このことは、特に自然科学と人文科学の乖離が問題を引き起こしていると考えられる課題に適している。この観点から①~③のテーマを考えると、明らかに第1の条件にも合致する。問題は、第3の「メタエンジニアリングで解けるか」である。これはやってみないことには分からないのだが、視点を全く変えることにより、大いに期待は持てると考えている。

①~③の問題を、少し包括的に捉えると次のようになる。
① 原理的にかなりの危険性があるものを、人類の文明として活用してゆかなければならないこと。
② 設計の専門化とマニュアル化(公の基準や規程等も含む)が進み、特に基本設計段階で、思慮に欠ける分野が存在すること。
③ 専門分野化が進み過ぎ、専門外からの主張や反論が正しく反映できずに、真に人類社会にとって正しい包括的な解決策が得られていない環境問題のような時間的、空間的に巨大な問題。

そのように纏める事ができる。


・大型航空機用エンジンの場合
                                                       
メタエンジニアリングが必要とされる場の条件として挙げた3つの条件を元に、メタエンジニアリングの位置が、科学・工学・ビジネスの中間に存在する、との仮定の上で、大型航空機用エンジンの場合を考えてみる。もはや現役ではないので、少し時代遅れの感覚であることをお許し願いたい。

大型航空機は大型化、軽量化、高性能化などの更なる研究開発が巨大な投資の元に続けられている。しかし、「エンジンが止まると、飛行機は石になる」の言葉が示すように、基本的に大きな危険が存在する。しかし、現代社会にとっては必須のものでもある。(条件①)
 エンジン設計の専門化とマニュアル化(公の基準や規程等も含む)が進み、設計者が自由に発想をする問題が限られつつある。一方で、厳しい競争に勝つために、最先端の技術を使いたがる傾向がより強く現れている。(条件②)
 代概燃料問題は、バイオ燃料で経済問題が起こりかけたり、超音速機ではコンコルドの失敗があった。将来航空機のありかたについての検討が、専門化任せになっているのではないか。(条件③)

以上を纏めると、次の図になる。



ここで分かることは、将来の大型航空機の在り方について、専門化が進み過ぎて「むら社会」が形成され、他の分野の専門家の意見が反映されにくい状況が形成されると、思わぬ信頼性の喪失や危険性が顕在化することがあり得ると云うことではないだろうか。航空機に関する工学的な分野は、すでに総合工学として位置づけられているのだが、最近の傾向として「エアタクシー」なる構想が先進国で進められている。私は、かつて航空機用のエンジンの整備の在り方は、かつての自動車のように使用者が安全に触れるようにすべきか、自衛隊員のように基礎から勉強をした専門職に任せるべきかを考えた経験がある。しかし、好むと好まざるとにかかわらず、航空機が自動車並みになる時代が、来るのだろう。そのようなときに、原子力工学の二の舞になってはならないと、思う次第である。

メタエンジニアリングとLA設計(8) 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その2)

2013年09月02日 09時16分53秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts

第5話 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その2)

 工学部は何を目指すか、中島尚正編、東京大学出版会(2000)には、多くのことが書かれている。しかし、メタエンジニアリングの見方からは、やはり大きな疑問を感じざるを得ない。(その1)では結論の部分を引用して、メタエンジニアリングとの関連について述べた。(その2)では各論について検討をしてみよう。


第2章のタイトルは、「21世紀の社会と環境に責任を持つために」であり、ここにメタエンジニアリングとの共通点をみることができる。2,2項は、「社会の人と活動を支え、文化とともに歩む」とある。その中で、工学の概念に関する記述にはこの様にある。(P124からの引用)
「・世界の安定化に貢献する工学の概念
 この様な課題に対して、工学の果たす役割はいったいどういうところにあるのだろうか。まず第一の課題として、世界の安定化のメカニズムの理解を工学の分野でも進めることである。安全保障問題は、これまで社会科学系、とくに政治学や経済学の研究対象であった。しかし、これからの工学では、国際社会全体に起きている変化を理解して初めてその役割を論ずることができる。とくに、自然科学/工学研究者を志す学生や研究者が、価値観や哲学の重要性を認識し、みずから研究対象や開発成果が、国際社会の安定化にどのような意味を持つかを考えるような教育が必要となる。」
この記述は、メタエンジニアリングの基本思想に一致をすると考えられる。ここでは安全保障問題が唯一の例として挙げられているが、地球環境問題、原子炉の安全性と信頼性の問題、水の問題など枚挙に事欠かない問題が山積している。現在、これら多くの問題は国際会議の場でも、南北問題や経済問題に阻まれて有効な結論を得ることが困難な状態にある。しかし、何れの問題についても、最終的に根本的な解決策を考えて実行するのは自然科学者と工学者と技術者、つまりエンジニアリングによる社会への実装である。正に「これまで社会科学系、とくに政治学や経済学の研究対象であった。しかし、これからの工学では、国際社会全体に起きている変化を理解して初めてその役割を論ずることができる。」ということだと思われる。しかし、残念なのは、「自然科学/工学研究者を志す学生や研究者が、価値観や哲学の重要性を認識し、・・・」の部分が抽象的な表現でおわっていることである。この前提条件をもっと具体的に追及して、かつ実行しなければ、この議論を力のあるものにすることは不可能であろう。その機能を担うのが、メタエンジニアリングの一つの基本機能であると考える。

 更にこの議論を進めるならば、このことは短期的には世界の安定化に貢献するということだが、実は21世紀は更に深刻な問題に直面している。それは、人類の文明の岐路に差し掛かっている現状認識から来る。多くのイノベーションが急速に世界全体に広がって行き、その速度も複雑性も増加の一途である。しかし、哲学的・生物学的に見て間違いなく正しい方向に向かっているのだろうか。そのような設問に直面すると、最早安定化云々を越えて、人類社会の文明の向上と持続性という命題にまで行くべきであるように思う。
 なを、先の第3場で示された「提言」は、その後内容がより充実されて、「震災後の工学は何をめざすのか、東大工学系研究科、内田老鶴圃発行(2012.7)」として出版された。



 この中では、想定外の事態に対する脆弱性が問題発生の源であるとして、「レジリアンス工学」の創成が重要視されている。(P340からの引用)
「今回のような震災に立ち向かうためには、災禍の損害から早期の機能回復が可能な技術社会システムを実現するための、レジリアンス工学とも呼ぶべき新分野を確立することが必要となっている。これまでの工学が、どちらかというと「想定内の範囲内だけで考える」工学であったのに対してレジリアンス工学では「想定外のことが起きてもなんとかなるようにする」ための工学である。今回の(震災の教訓として、工学はこうした課題にも取り組むことが必要である。)
と述べられている。更に、その章では、「緊急対応工学の創成」という節が設けられている。

 このことは、もちろん必要なことで、何故今までそのような分野が工学として存在しなかったかの疑問が生じた。例えば、航空機用エンジンの設計の際には、この「想定外のことが起きてもなんとかなるようにする」ための設計は、いやというほど色々な工夫を盛り込んでいる。これは、広い意味での予防設計と言える分野かもしれない。そして、その設計のためには、先に述べたように、文化や文明や哲学への絶対的な理解が必要であり、そこにDesign on Liberal Arts Engineeringの原点がある。

ここまで色々な例を述べてきた。結論として感じることは、過去の経験から工学やエンジニアリングが専門知識の範囲だけでの行動が大いに問題有りということだ。その為に、もっと視野を広げよう(俯瞰的)とか、連携を深めよう(境界領域)といった動きが始まったのだが、それ自身がまた専門領域になってしまうと云う現状が見えてくる。このことが過去数十年間繰り返されてきているように思える。
 この動きを変えるには、新たな発想としてのメタエンジニアリングが必要であり、それに基づく広義のデザインが、Design on Liberal Artsと考えるわけであるが、いかがなものであろうか。


メタエンジニアリングとLA設計(8) 第6話 メタエンジニアリング設計技術者の育成

2013年09月02日 09時15分37秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第6話 メタエンジニアリング設計技術者の育成

・知識・経験・知力(知識+経験=知力)

LAE(Liberal Arts Engineering)的設計に必要な知力を如何にして身に付けてゆくか。
 日本の戦後教育は知識偏重で、知力が足りないとよく言われる。設計は、膨大な情報から一つの特定された解を形に表すもので、知識だけではどうにもならない代物であり、知力が基本要素と思う。知力とは、ある言い方をすれば、「出来るだけ少ない追加の情報で、新たな正しい判断が出来る能力」である。つまり、アリストテレスが提唱したフロネシスである。アリストテレスが知を五つに分類したうちの、直感的に原理を把握するヌース(知性)、真理を見極めるソフィア(智慧)、客観的知識としてのエピステーメ、物をつくりだす実践的知識としてのテクネ、の4つは教育現場でも良く取り上げられている。しかし、「豊かな思慮分別を持ち、一刻ごとにかわるそのつどの文脈に応じた最適な判断や行為を行うことを可能にする」能力であるフロネシスについては、あまり語られることは無い。知識を学ぶことは容易であり、それを基に知性は磨かれるであろう。しかし、知力を身に付けることは経験を積む以外には中々に難しい。設計技術者である私は、一つの手段として「Whyの追及」をやって来たように思う。

Why(何故)を常に考えて、不適切な改善や変更を無くす。聊か詳細に過ぎるが、航空機用エンジンの設計担当時代に記したことを引用する。
 「設計変更や工程変更が不適切であったために発生した不適合が散見される。これは、変更した人が「なぜ、従来そうなっていたか」を十分に理解していない事に起因すると思われる。特に、あまり重要でない部品にこの傾向が強く見られるが、重要でない部品であっても、エンジンの機能部品の場合には大事故に繋がる場合がある。実際に起こったことなのだが、ベアリング潤滑用のオイルポンプ内のひとつのO(オー)・リングの寸法公差の範囲内での変更により、ヘリコプタが海面着水で動けなくなった事故例を説明に使うことにしている。」

江崎玲於奈さんが講演で、「20世紀はWhatの追求の時代でしたが、21世紀はWhyの追求の時代だと思う」とおっしゃっていました。Whatばかりを追い求めると、人類撃沈の恐れがあるからでしょう。
 私は、新開発の設計ばかりをやってきましたが、ある時に何時の間にか設計変更をされた部品(小さな機能部品)のあることを知ってびっくりしたことを思い出します。その時は、それが原因で大きな事件が起きていました。技術部長の時代に何度もいっていたことは、「設計変更をする者は、オリジナル設計者よりも能力が必要。そうでないなら、なんとしても変更前にオリジナル設計者の意図を確かめること」でした。
 設計変更や工程変更をする場合には、極力 元の作成者の意図(Why)を調べること。それが不可能な場合には、なぜそうなっているのかをよく考えること。一見、無駄があるような設計や工程にも、それなりの技術者の意図があるものと信じることです。改定理由を示す伝票の類に、「何故改定をしたかの理由」をきちんと記述する習慣を身に付けること。「誤記訂正」と書いてあったのでは、後の人に何も伝わらない。

昔の話ですが、Rolls-Royce 社との共同開発では、お互いにDesign Scheme(本来の設計図であり、製造用の図面ではない)を見せ合い、議論をした。そこには、寸法を決める際のWhyが常に文章なりデータで書き込まれていたので、私はこのDesign Schemeというシステムを全面的にプロジェクト全体で適用をした。一見、製造用に製図された図面との重複があるように見えるのだが、後者では「Why」は全く伝わることは無い。しかし、現場を離れて十年後に、この習慣が全く忘れられたことを知った。
Whyを知らずして失敗をした工程変更の例は、JTOの話(核物質の臨界事故)が有名だが、鋳造されたタービン翼のオーバーブラスト事故なども同じ原因(最初の設計者の意図が分からずに、無駄と思い込み ある鋳物形状の部分を取り除いた)だった。設計技師とは、「Whyを考える人」といってよいと思う。


・技術ノウハウはWhyを蓄積する(What&HowとWhyの違い)

WhatとHowとWhyは混同しがちだが、全く違うものだとの強い認識が必要です。
私は、20年間新エンジンの設計に従事して、当時では国内で唯一人の実用された商用ジェットエンジンのチーフデザイナーだと思っていた。技術者にとって常に一番大切なことはWhyだと思う。しかし、最近はWhyが軽視されており非常に危険な状態にあると感じている。
 私が設計の現場を離れてから20年以上が経ったが、20年の間にWhatとHowはずいぶんと変わったと思う。しかし、Whyはそんなには変っていない。
 設計や技術に関する、ノウハウや標準化が形式知化のために進んでいるが、WhatとHowに捉われているように思える。Whyを引き継ぐ事が重要で、Howは寿命が短い。極端な場合は新たなエンジン毎に新しいものが導入されるくらい進歩が激しい。古いHowに頼っていては良い設計はできない。反面、Whyが本当に分かっているのでしょうか、といった疑問に多くの場面で遭遇してしまう。
従って、HowとWhyの認識の区別が重要になるわけです。私は、設計課長時代にこのためにAero Engine Design Standard 「AEDS」を作りました。中身は、「何故そういう設計になるのかの理解」を重視して、計算方法などはむしろ設計者本人次第として敢えて標準とはしませんでした。残念なことに、この伝統も10年ほど前に倉庫の奥で消えてしまいました。

糸川英夫さんは、著書「日本創生論」のなかで、こう断じて居ます。「Howばかりで、WHYの無い国」の文中からの抜粋。



「「なぜ」と問う姿勢が、伝統的に欧米人の思考法の基盤になっている。これに対して、日本的思考法の基盤は、「いかにして」(How)である。たとえば、日米構造協議にしても、日本側は相手方の矛先をいかにしたら(How)うまくかわせるかに終始して、なぜ(Why)このような問題が起こってきたかにかかわる部分はすべて素通りしてしまう。」

再び、過去の文章を引用する。
「設計の品質の低下を嘆く声を現場でよく聞かされる。開発のスピードは上がったが、同時に設計品質も向上したのだろうか。このところ、設計品質の確保は設計審査の強化や10個のトールゲート制度などのチェック・システムの開発と管理に重点が置かれており、肝心の創り込み技術の向上は、かなり手薄になっているように思える。
 設計はHowではなく、Whyであり、Howばかりが上達した計算の達人には正しい品質の設計は期待できない。設計者個人の創り込み技術の育成はどのように行われているのであろうか。かつてVプロジェクトの開発設計時代には、欧米各社の開発設計技術を日常的に取り込みAEDS(Aero Engine Design Standard)に纏め、若手の設計者には先ずそれを学んでもらった。また、中堅の設計者はAEDSを作ることにより、自らの技量をブラッシュアップしてもらった。今ではAEDSは電子化こそされたが、長期に亘って改定や増補はされずに興味を持った人が歴史の遺物として時折覗くだけのものになっている。WhatとHowとWhyの違いを良く認識して、「技術ノウハウの蓄積はWhy」を徹底しければいけない。」


メタエンジニアリングとLA設計(6) 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その1)

2013年09月01日 15時43分43秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第5話 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その1)

 工学部は何を目指すか、中島尚正編、東京大学出版会(2000)には、多くのことが書かれている。編集委員には当時の小宮山教授など30名の錚々たる名前が列挙されているので、この内容についてコメントをすることは、なんとも気が引ける。しかし、メタエンジニアリングの見方からは、やはり大きな疑問を感じざるを得ない。
「工学部は何を目指すか」のテーマに対する第1場は、1968-69の所謂東大紛争であろう。編集者の中島さんも私も、当時その大学の大学院に在籍をしていた。そして、その期間中に全く新たに、機械系大学院自治会などというものを組織して、数名の教官とともにこの問題について議論を重ねたことが思い出される。その際の主なテーマは二つで、①工学部からの社会への発信は如何に考えるべきか、②学生が学部の建物の全面封鎖を実行する際に、我々はいかに対応すべきか、であった。その時の議論の詳細は別途に譲るとして、この直後のことがこの書に記されている。




第1場 1968-1970 (P300からの引用)

「真摯に議論を重ね、将来ビジョンをまとめるという作業は、実は今回が初めてではなく、東大紛争以来の出来事です。紛争中、それに続く百家争鳴の時期に、工学部教官によって書かれた数多くの文書は、「新しい工学部のために」(東京大学出版会、1969年)、「工学部の研究と教育」(東京大学出版会、1971年)という2冊の本に収められています。その後半には、紛争に関する興奮した論述や理念論を離れて、冷静な分析にもとづき、工学部のあるべき姿、改革への提言が述べられています。その中から、いくつかの文章を紹介します。
 工学部が今後の社会においてますます比重を高めてゆくことを考えたとき、社会に対して開かれていない工学研究というものはありえなくなる。(・・・)しかし、このことはいたずらに有用性、実用性を重視した研究を行うことを意味しない。近年における個々の技術の発展が生み出した種々の好ましくない波及効果の累積は、工学のあり方に多くの新しい問題を生み出した。この様な技術の発展に置ける予定調和性の喪失にいかに対処すべきかを考え、工学研究の対象をあらゆる人間活動の場に広げるという意味で社会に開かれた研究が今後の大きな方向になる。このことはまた従来の学科中心のあり方からははみ出す種々の境界領域を積極的に開拓することの必要性につながる。
 科学と工学の進歩は人類を幸福にするという信仰が、妄想に堕しつつあるときに、工学者は工学を越えた次元からの問いかけに、答えるように要請されている。このことは、専門の工学教育において、その社会的波及効果をも研究対象にくり入れて考慮すべき責任が生じつつあることを意味する。また、従来の専門工学の境界を越えて、他の学問分野と必然的に関連することを予想させる。(・・・)「工学を越える工学」を志向し、混沌の内より、新しい体系を創造しようとすることこそ、今後の工学研究の基本的命題であろう。」と記されている。

 さて、最後の「工学を越える工学を志向し、混沌の内より、新しい体系を創造しようとすること」は、メタエンジニアリングということはできないであろうか。私は、この時点の問題は、この様な新たな体系を模索する中で、具体的には境界領域のみを志向したところにあると思う。そして、そのときに産まれた多くの境界領域は時代の流れとともに、本来の「この様な技術の発展に置ける予定調和性の喪失にいかに対処すべきかを考え、工学研究の対象をあらゆる人間活動の場に広げるという意味で社会に開かれた研究が今後の大きな方向になる。このことはまた従来の学科中心のあり方からははみ出す種々の境界領域を積極的に開拓すること」から次第に離れて、再び従来の学科と同じ専門化の道を進んでしまったのではないだろうか。アリストテレス的により総合的、根本的な方向に向かえば、工学はもっと社会から信頼を得られる方向へ向かったように思う。

第2場 1999-2001

 この時代は、この書籍の題名にある著書が纏められた場に相当する。
この書の「終わりに」に、次のような結論が書かれている。前節の第1場の主張を紹介した文章に続けて、「本書における主題と驚くほどに完全に一致した主張を20年前の文章に発見し、なんとも不思議な気持ちにさせられます。(・・・)現れる言葉は同じであっても、「社会」の意味するところは時代によって変わってゆきます。富国強兵の時代における「社会」は国家であり、戦後復興・高度成長経済のときの時代における「社会」は産業でした。いま、時代は産業のための工学から、個人の集まりとしての社会とともに歩む工学に変ることを求めている。それが本書の生まれた背景であるかもしれません。」
 この文章は何を示唆しているのだろうか。20年前の提言が実行されなかったことを意味するのだろうか。更に、次の10年、20年を見据えたときに、今回の提言が20年前の提言と同じ結果を生み出すとの予言なのだろうか。学問としての工学と、実学としてのエンジニアリングの大きな違いを強く感じてしまう。

第3場 2010の 3.11東日本大震災と福島原発事故の直後の提言
 
福島原発事故の直後に、前節とほぼ同じ陣容のグループから冊子が発行された。東京大学大学院工学系研究科「緊急工学ビジョン・ワーキンググループ」から「震災後の工学は何をめざすのか」という題名であった。



1. 今問われる工学の使命と役割― 諸君の挑戦こそが未来を拓き築きます ―
3)工学者としての見識からの文章を引用する。
「私たち工学部・工学系研究科で教鞭を執り研究を進める者は、工学者として直面する課題を正視し、深く客観的に原因を究明して課題を整理し、冷静な判断の下に適切な計画を立案し、工学者として見識を示す必要があります。その見識は純粋に科学技術に立脚した中立なものでなければなりません。その上で、社会や産業と密接に関係した工学は、様々な状況に置かれている様々な人々の考えや意見にも謙虚に耳を傾ける必要があります。科学技術で国の礎を築く大学の役割、少なくとも工学部・工学系研究科の役割とはそういうことと認識しています。
(中略)
5. 工学の新しい潮流
工学は現代に至るまでに伝統的とも言うべき基礎基盤工学の学問領域と、特定のシステムや対象を取り扱う総合工学と言うべき学問領域に発展してきました。基礎基盤工学としては電気、機械、物理、化学、材料、情報、土木、建築などが相当し、総合工学は原子力や航空、都市などが代表的です。今回の震災とそれに続いた原子力発電施設の事故や電力供給危機は、改めて基礎基盤工学と総合工学との関係について考えさせられます。例えば、総合工学の典型である原子力工学は物理、化学、材料、電気、機械、建築、土木など様々なディシプリンdiscipline を内包していますが、これらのディシプリンは基礎基盤工学では伝統ディシプリンとしてそれぞれ存在しています。この互いに対応しあうディシプリンは今回の事故に対してうまく連携できていたのでしょうか。第三章を読むと、その連携は必ずしも十分でないことに気がつきます。本章では、震災を契機に、工学の在り方を改めて 見つめ直し、レジリアンス工学や緊急対応工学など将来に向けた新しい工学の潮流について考えます。
(中略)
5.1 学際化する工学研究の課題
5.1.1 学際化する工学研究と巨大化する複雑系研究対象
基礎基盤工学と総合工学の関係は学際領域 interdisciplinaryや複合領域 multidisciplinaryと言う言葉でここ20年くらいの間で急速に意識されはじめました。学際領域や複合領域とは、学問の領域が伝統的な一つの基礎基盤工学のディシプリンに収まらずに、複数の学問領域が融合しあったり複合しあってできる新たな学問領域のことを意味します。そして、一度確立した学際領域や複合領域は自立して総合工学として発展していくものもあります。例えば、原子力工学は半世紀前に学際研究として誕生し、その研究対象であった原子力発電システムは巨大複雑系システムに発展し、原子力工学は学際化した巨大複雑システムの工学として進化してきました。こうして工学は時代に即して、あるいは時代の課題に即して、様々な総合工学の学問領域を作ってきました。こうした柔軟性が工学という学問領域の特徴ともいえます。さらに、学際化や複合化は今や総合工学だけでなく、礎基盤工学の各領域自身でも起こっているといっても過言ではありません。先端研究では学問の学際化や複合化がどんどん進んでいます。

問題は5の「その連携は必ずしも十分でないことに気がつきます。」というくだりだ。さらに5.1.1で「基礎基盤工学と総合工学の関係は学際領域 interdisciplinaryや複合領域 multidisciplinary と言う言葉でここ20 年くらいの間で急速に意識されはじめました。…………」

このような説明があるのだが、長い間、充分でなかったものが、課題として上げることによって果たしてどの程度に充分になるのであろうか。もっと、さらに根本的なところにまで進むべきではないだろうか。「融合しあったり複合しあって」といった表現で、すまされることではない。必要なことは「連携」からいったん離れて、真の「融合」と「統合」である。真の「統合」「融合」は、一つの開発チームの中のことであり、一人のエンジニアの頭の中のことである。

このことを、私は1990年当時のGE社とUnited Technology社から学んだ。実際の新型エンジンの開発チームの組織に対する考え方が従来と全く変わったからである。それまでの開発チームは、所謂臨時のプロジェクト・チームであり、関係各部署の代表者の集まりであった。当時、米国の数社で始められたCOE(Centre of Excellence)という考え方は、代表者の集まりではなく、独立した権限を持つ恒常的な新組織であった。
専門のオフィスを持ち、専門の工場を持ち、その全ての運用に対して独立した権限を持つと云うものであった。そして、多くの独立組織のトップには若手の有能な人材が充てられた。

メタエンジニアリングとLA設計(5);失敗の本質とメタエンジニアリング

2013年09月01日 15時00分46秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第4話 失敗の本質とメタエンジニアリング


日本工学アカデミーが提案した根本的エンジニアリングは、その目的の一つを優れたイノベーションの持続であるとしている。その為の方法論が第1話で示したMECIサイクルと呼ばれるものであるが、発想法がいかに優れていても、肝心のI(Implementation)即ち社会への適用がおろそかでは結果として失敗となってしまう。最近の日本の製造業にはそのような例が後を絶たない。そこで、失敗の本質を色々な角度から考察する必要性が生まれる。


このことを、失敗の本質、戦場のリーダーシップ編、野中郁次郎編、ダイヤモンド社(2012) を基に考えてみることにする。この書は最近出版されたものだが、以前に出版された同様の著書からの数年間の準備期間の痕をその内容から感じることができる。多くの例題は日本の旧陸海軍の話だが、その歴史的事実にも成功と失敗が入り乱れている。そして、その差異を世界的な歴史事実とも照らし合わせて、失敗の本質を追究している。そして、副題に示されたように、主要なテーマはリーダーの素質である。



先ずは組織論。「開かれた多様性を排除し、同質性の高いメンバーで独善的に意思決定をする内向きな組識であった」が失敗の本質の一つであるとしている。これは福島原発事故で再三指摘をされたことに共通している、所謂「むら社会」であろう。エンジニアリングにおいても、先ず避けるべき要件なのだ。
次に、「リーダーに求められる6つの能力」は、
① 「善い」目的をつくる能力
② 場をタイムリーにつくる能力
③ ありのままの現実を直視する能力
④ 直感の本質を概念化する能力
⑤ 概念を実現する政治力
⑥ 実践知を組織化する能力
であり、これらを具備した者を「フロネチィク・リーダー」と称するとしている。

フロネチィク・リーダーの育成に必要な事柄が色々と述べられているが、最大の課題はリベラルアーツ教育の拡充であるとしている。「近代日本では、西洋の列強に追いつけ追い越せとばかり、法学、工学、言語等の実学を重んじた結果、欧米諸国のリベラルアーツ教育が重視した教養、すなわち文法・論理・修辞学の三学問や、天文学,幾何学、算術、音楽などのアーツ、それに哲学、歴史などを学ぶ意義が顧みられることはなかった。」また、「先ほど成功と失敗の経験の重要性を指摘したが、もう一方では教養(リベラル・アーツ)も重要な要素である。哲学や歴史、文学などを学ぶ中で、関係性を読み解く能力を身につけることができる」とある。
この文章から感じることは、現代日本のグローバル化を求める社会の現状との相似性である。

また、このことはメタエンジニアリングとの共通性がおおいにあると思う。なかでも、グローバルな事態における指揮官の資質として、哲学と異文化理解力が重要としている。「戦闘部隊の指揮官には軍事専門能力だけではなく異文化理解力、すなわち現地の政治・経済・社会・宗教等の幅広い知識が求められる。」である。主語を「グローヴァル・イノベーションを目指すエンジニア」に代えても全く同じことであろう。逆にいえば、哲学と異文化に対する正確な理解のないままに突進をしても、失敗をするであろうということなのだ。

 リベラルアーツとフロネチィク・リーダーについては、詳細な説明が加えられている。
「アリストテレスが提唱したフロネシス(賢慮)という概念がある。そもそもアリストテレスは知を五つに分類した。直感的に原理を把握するヌース(知性)、真理を見極めるソフィア(智慧)、客観的知識としてのエピステーメ、物をつくりだす実践的知識としてのテクネ、そして、豊かな思慮分別を持ち、一刻ごとにかわるそのつどの文脈に応じた最適な判断や行為を行うことを可能にするフロネシスである。」と説明をしている。その上で、これらを先ほどの6つの能力に纏めたわけである。ここで、テクネがエンジニアリングの最も近いことではあるが、他のものを加えれば、それはおのずとメタエンジニアリングになるのではないだろうか。また、「ありのままの現実に身を置きながら、見えない本質をいかに直感し、概念にするか、それを可能にするのが実践知であり、それを備えているのがフロネチィク・リーダーである。」とも述べている。正に、メタエンジニアリングそのものと共通であると云えるのではないだろうか。

メタエンジニアリングとLA設計(4) 第3話 設計パラメータのトレードオフ

2013年08月28日 19時27分46秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第3話 設計パラメータのトレードオフ

2012年新年特別号「文藝春秋」の「日本はどこで間違えたか もう一つの日本は可能だったか」という記事は、30人の識者が、それぞれ戦後処理、経済政策、官僚主導など具体例を挙げ、持論を語っており読み応えがあったが、そこで感じたことは、まさに藤井清孝氏の指摘「本質的にトレードオフになる論点を議論せず、いいとこ取りをした聞き心地の良い言葉を信じるような風潮」が近代日本の歴史の多くの重要な場面に当てはまってしまうということだった。
 しかし、これは日本文化の根底にあり、美徳とも言えるようなことでもあり、一般社会では良いとされることが少なくない。これが日本社会から消えることはなかなか考えにくいのだが、世界を相手に競争をする場合には、これだけではやってはいけない。技術が優れている、品質が良い、サービスが良いなどといううたい文句だけでは間違いなく負けてしまう。
 「トレードオフ」と云う題名の本がプレジデント社から発行されている。著者は、Kevin Maney,翻訳者は有賀裕子で2010年に出版されている。前者の記事とは観点が全く違い、イノベーションの秘訣の様なものの記述に終始している。勿論、失敗例も列挙されているが、原因の多くをトレードオフ判断の間違えか、中途半端さにあったと指摘をしている。代表的な文章は、
   「卓越した人々は、慎重に考え抜いたうえで難しい選択をする勇気を持ち合わせているうえ、「何もかもできる」という錯覚に陥ることなく、自分が抜きんでる可能性のある分野にだけ力を注ぐのだ。(中略)その概念とは、「心を鬼にして上質さと手軽さのどちらかひとつに賭けようとする者は、煮え切らない者よりも大きな成果を手にする」というものだ。」
明暗を分ける者は、トレードオフにおける選択の適否にあり、と断言をしている。

ジェットエンジンの新機種の設計に際しても、まずここが検討のポイントとなった。使用者、すなわちエアラインにとってのライフサイクルにおける総コストが「設計のトレードオフ」との関連で定量的に明示され、その上で評価されたものでなくては厳しい勝負に勝つことはできない、との概念である。
 かつてジェットエンジンの新機種の設計を開始する時点で、市場開発部門と設計部門が協力し、エアラインの直接運航費(DOC : Direct Operating Cost)に関するデータを基に以下のような表を作成した。



この表を使って基本設計の方針や大きな設計変更などについて検討し、判断を下すわけである。
 この表の項目でエアラインが最も興味を示すのは、燃料消費率(TSFC=Thrust Specific Fuel Consumption)である。

http://en.wikipedia.org/wiki/Components_of_jet_engines
 
圧縮機やタービンの効率を上げれば燃料消費率は下げられるが、そうすると圧縮機やタービンの段数を増やさなければならないなどでエンジン重量が増加してしまう。そして、それだけ搭載許容重量・乗客数が減少してしまう。またエンジン重量を抑えるために特殊材料を多用すれば、エンジン原価が上がり、それはエアラインの直接運航費(DOC)を引き上げてしまうことにつながる。
 そうした関係を定量的に示したのが先の表で、これによって燃料消費率を1%引き下げるためにXXXポンドまでの重量増は許されるが、それ以上の重量増は直接運航費(DOC)を引き上げてしまい、本末転倒となる。軽量化のため特殊材料を用いると、今度は製造コストが上がってしまう。燃料消費率を1%引き下げのためにX.XX×104ドルまでのコスト増は許されるが、それ以上のコスト増となると、直接運航費(DOC)を引き上げてしまい、意味がなくなる。こういったことが分かる。
実際には、重量増加とコスト増加を組み合わせによって燃料消費率向上を実現させている。そして、それをどのような組み合わせにするのかの設計変更の方針が決められる。このようにエアラインの直接運航費(DOC)の観点から「設計のトレードオフ」が行われるのである。

 さて、このような定量的な判断基準はどのような背景から実現が可能であろうか。通常のエンジニアの専門知識だけでは、不充分であることは自明であるが、同時にエンジニアでなければ定量化できない数値である。エアラインがその機種の入手からはじまり、長期間の運用中にどのようなことが起こるのか、最後に中古機市場に売却するときはどうであろうか、といった事柄を知らなければならない。このようなことは、経済学ばかりではなく、広く社会科学にまで及ぶので、一般的にはLiberal Artsと呼ぶことができるであろう。そこでは、Liberal ArtsとEngineeringの合体(LA&E)が求められるわけである。


メタエンジニアリングとLA設計(3) 第2話 設計者の教育とレベルアップ

2013年08月26日 07時29分21秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第2話 設計者の教育とレベルアップ

設計の信頼性はいろいろと言われるが、私は設計者のレベルに注目している。それは、知識よりも長い間の経験の積重ねによる感性から出てきたもののように思える。そう思えるのは、Rolls Royce社、Pratt & Whitney社、General Electric社のデザイナーとの20年余に亘る航空機用の大型エンジン開発プロジェクトを通じて とことん付き合ったお陰だと思う。設計一筋その道に打ち込んできた人の設計に対する考え方は、設計図に確実に現れるもので、私も実機エンジンの設計図に1万回以上のサインを繰り返した後にそのことが実感として分かるようになったと思う。

・LA&E(Liberal Arts & Engineering)とは

英語版のGoogleでこの語を検索すると、多くの米国の大学ヤカレッジで両者を並行して教えていることが分かる。一例を紹介する。
WPI’s Liberal Arts & Engineering (LAE) degree program prepares students to take on those challenges by providing a broader base of knowledge not only in engineering, but in other disciplines as well. The LAE degree was created for the student seeking a career that demands engineering know-how, communication tools, and problem-solving skills. Our students graduate with a strong technical background, a broad appreciation of the humanities, and a critical awareness of social implications.
In fields such as medicine, law, public policy, international studies, business, and wherever a solid technical background would give them a unique edge, graduates of the WPI Liberal Arts & Engineering program will be uniquely prepared to solve the problems of the 21st Century.

Engineering (Liberal Arts) The Dual Degree Engineering Program (3-2 program) at Wheaton will allow you to combine the best of two different worlds - a rigorous Christian liberal arts training in an amazing community and a strong engineering education from one of many fully accredited engineering schools around the country. In addition, at Wheaton you will be empowered and encouraged to use your engineering knowledge to serve Christ and His Kingdom.
What are the characteristics of someone educated broadly in the liberal arts and engineering? Enjoining designing things and processes involving disparate components. Design involves creating solutions in response to state needs or problems, under a set of considerations that include cost, safety, environmental impact, ergonomics, ethical considerations, sustainability, manufacturability, and reliability. Design is not so much about the latest technology as it is about appropriate technology to meet human needs.(註1)
などである。

Worcester Polytechnic Institute

Liberal Arts & Engineering
Personalized Approach and Flexible Curriculum
Our unique program offers a liberal arts degree integrated with an engineering foundation. Focusing on personal and individualized attention, the Liberal Arts & Engineering (LAE) program encourages students to pursue innovation. The program accommodates a wide range of interests while helping students develop a coherent program of study. Dedicated faculty members and advisors will help you develop the program that’s right for you.
Freedom to Customize Your Education
The flexibility of the program allows you to follow your passions, select many of your own courses, and choose from a wide range of classes to complement your unique interests. The LAE program distributes the 15 required courses in the major more broadly than in engineering, with 9 courses in engineering and the remaining 6 in management and the liberal arts.
Program Designed for Problem-Solvers
The LAE degree was designed for students who need a practical, broad experience in engineering as well as other disciplines to take on the challenges of an interdisciplinary world. Central to the program is the intent to produce strong communicators, effective team members, and creative problem solvers.
 
日本の多くの大学では、工学を学ぶ前に一般教養課程として之に相当する教育を提供するケースが多いが、一般的に低調で工学を用いて社会に役立つ技術を設計・開発を行うための基本としての教養と云う位置づけがない。


Ohio University
Meta-Engineering + Technology

What is meta-engineering? It's about going beyond the practical application of engineering and technology. And at the Russ College, that's what our students and faculty do every day. They embrace critical thinking. They thrive on hard work and close collaboration. They're creative, able to lead and interested in the life cycle of designs. Like all meta-engineers and technologists, they're doers. But as meta-engineers, they're even more: They're dreamers who want to use their knowledge, passion, and skills to make a positive impact on the world.

・計理工哲(設計のレベルに対するマクロ的視点)

設計者のレベルには4段階あると思う。私の造語だが「計理工哲」と示す。
「計」は、計算ができる、計算づくでやる、計算結果で設計する、などだ。これでは設計とは云えず単なる計算書つくりだ。(その前に「真似る」という段階があるが、これは設計以前。)
「理」は、計算の上に理由、理解、原理、定理、公理、などを取り入れた設計。一応形にはなり、多分 性能や機能は発揮できるであろう。しかし競争力を備えた商品にはならない。
「工」は、人間が作り、人間が使うことを前提として「計」と「理」にプラスした設計。製造者にも使用者にもメリット(利益)が出るもの。通常の設計はこの段階である。CS(顧客満足)もこの範疇に入る。
「哲」は、更に哲学的な要素が加わった設計。どのようなものが人類または地球や生物に本当に良いものか。芸術的な要素もこの段階から入ってくると思われる。人工物の世界遺産などがそれにあたると思われる。

Design for constraintsと云われるものは、「計と理」の設計。これに対して、American Society for Engineering Education と National Society of Professional Engineering では、かつて「Liberal arts engineering」という言葉を使っていたが、これは「工と哲」の設計ではないだろうか。


人類の歴史の中で長く、多く使われたものの中に「哲の設計」を見ることが出来る。私は、優れた客船や建築物にそれを見ることができる。最近は自動車にもその動きがあるが、飛行機やエンジンもそろそろ哲の領域に踏み込む時期ではないだろうかとの考えをもった。Design on Liberal Arts Engineeringとは、このような背景から思い至ったものなのである。

(註1)http://www.wpi.edu/academics/lae/about.html
(註2)http://www.ohio.edu/engineering/about/meta.cfm

第1話 俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘

2013年08月23日 20時20分14秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第1話 俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘

・メタエンジニアリングで考えるとは


 メタエンジニアリングは、社団法人日本工学アカデミーの政策委員会から、2009年1月26日に「我が国が重視すべき科学技術のあり方に関する提言~ 根本的エンジニアリングの提唱 ~」という「提言」(註1)で述べられたものから始まる。その要旨は、「今後重視すべき科学技術のあり方においては「俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合あるいは収束」との命題に答える広義のエンジニアリングこそが重視されるべきである、との考えに基づくものである。この「社会課題と科学技術の上位概念から社会と技術の根本的な関係を根源的に捉え直す広義のエンジニアリング」を『根本的エンジニアリング(英語では、上位概念であることを強調して Meta Engineering と表現)』と名付ける。」であった。

・俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘

 ここで問題とすべきは、「「俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合あるいは収束」との命題に答える広義のエンジニアリングこそが重視されるべきである」の部分であろう。そこで、今このエンジニアリングの語を「設計」(広義の設計で、計画・企画等も含む)という語に置き換えてみよう。
「俯瞰的視点からの潜在的社会課題の発掘と科学技術の結合あるいは収束、との命題に答える広義の設計こそが重視されるべきである」となる。まさにこれこそがせ技術者の進むべき道であると思う。
 「はじめに」で、設計のスタート時点における戦略設定の必要性を述べた。従来の設計の結果は、さしあたっての使い始めは大変に具合が良いのだが、しばらくするととんでもない欠陥が暴露されることがしばしばある。しかし、そのような問題が起きたときに、多くの場合は「設計に問題があった」と結論づけることはない。たいていの場合には、製造工程や使い方や、その後のメインテナンスに原因ありと結論づけられる傾向にある。このことは、一般にはさほど疑問視をされないが、ベテランの設計技術者の眼から見ると、明らかにおかしいことなのだ。その理由は単純である。設計が原因であるとすると、今更直しようもない。設計が原因であるということは、それまでに生産された全ての製品が駄目であるということと、同義なのである。製造工程の問題ならば、ある時期のある製造機械などに限定することができる。メインテナンスの問題ならば、対策は更に限定され、かつ易しい。しかし、製造の問題も、メインテナンスの問題も、実は設計に真の問題があることが非常に多い。例えば、笹子トンネルの天井板の崩落問題である。この部分の設計は、当時のルールで認められており、数々の検査をパスしたものであり、長期間問題なく使用されていた。しかし、あの外れたボルト部分を見れば、メインテナンスに適さないことは一目瞭然であろう。つまり、メインテイナビリティー設計が余りにも稚拙だったことを示している。

(余談)
 私が品質管理部門を担当していた時のこと、不適合の原因として所謂ヒューマンエラーが年々増加しているとのデータが示され、全体の約70%を占めるまでになっていた。しかし、それは品質管理の専門家の見方であり、設計技術者の眼で詳細に原因検討を行うと、その70%は、設計が稚拙であるために起こったエラーであるとの答えが出た。つまり、全体の約半数は、設計が原因であったと云えるのである。

「俯瞰的視点からの潜在的社会課題」と云う表現をもう少し掘り下げてみよう。通常の設計は、ある機能を果たすために行われる。その為に色々な設計条件があり、それらを満足する一つの回答が、所謂Design by Constraints であろう。之は必要条件を満たした設計と云えるのではないだろうか。しからば、必要十分条件を満たした設計と云う場合の十分条件とは何であろうか。之が、「俯瞰的視点からの潜在的社会課題」であると考える。つまり、必要条件を満たした設計に対して、潜在的社会課題が無いかどうかを俯瞰的視点から調べ直すことである。その視点は、文化人類学、生物学、文明論、哲学など通常の設計技師の頭の中にはあまり見かけないものであろう。このような視点で行われる必要十分な設計を、Design on Liberal Arts Engineeringと呼ぼうと考えている。現代社会が望むものが、本当に人類の持続的文明の発展に寄与することができるのだろうか、潜在的な問題が潜んでいないのだろうか、と云った問いは、現代社会の中に既に無数に存在するように思われる。
 最も端的な例が原子力発電所である。各地の発電所は所定の設計条件を満たし、建設された。つまり、必要条件は満たしている。しかし、使用済核燃料の廃棄サイクルが決まっていない。これは、十分条件を満たしていないことになる。このような設計例は現在世界中に充満している。グローバル社会時代の設計は、大規模かつ瞬く間に世界中に広がってしまう。このような環境下での設計は、必要十分条件を満たす設計でなければならないであろう。

(註1)http://www.eaj.or.jp/proposal/teigen20091126_konponteki_engineering.pdf

メタエンジニアリングとリベラルアーツ設計;はじめに

2013年08月23日 20時11分39秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
はじめに

これは、私自身の40年間にわたる設計技師としての経験と、その後に出会ったメタエンジニアリング(根本的エンジニアリングとも云われている)という技術論の研究の末に得られた知識を基に、今後の正しい設計のあり方について考え、纏めたものである。

私は、設計技術者としての40年間の大部分を民間航空機用エンジンの国際共同開発の事業とともに過ごした。国際プロジェクトを長年続けて先ず思うことは、設計に対する概念の違いである。即ち、設計という行為をある目的を達成するための、戦略と見るか戦術と見るかである。勿論、最終的には目的達成のための戦術と戦闘になるのだが、出発点をどこに置くかである。日本人的発想は、ある新しいものを想定してそれをイメージするところから始まる。即ちWhatとHowである。一方で、近代技術による設計の歴史の古い西欧人の設計は、Whyから始まる。「何故、今我々はこの設計を始めるのだろうか」といった問いから、スタートの時期と目標が定まってゆくのだ。従って、具体的にはP.L.(Program Launch)のタイミングが重要な転換点となるのだが、日本の場合は、このことがひどく曖昧である。しかし、一旦スタートをすると、全速力でまっしぐらに突入して、早く成果を上げることができる。一方で、スタートが曖昧なので、途中での方向転換などが旨くできない。

一方で、ここ数年の間に発生した多くの大事故で常に思い当たることがある。それは、第1に規制や規則で設計上の安全が保たれることは絶対に無いと云うことである。設計は何百万~何億の選択と決定の結果(註1)であり、その全てを規定することは不可能である。そして、何百万~何億の選択と決定の中で、安全性や信頼性に関する事項はおよそ20~30%くらいの事例が多いと思うからである。第2はそのシステムなり機械の設計者は本当に全ての環境と事象を理解して設計をしたのであろうか、という疑問である。多くの技術は西欧でオリジナルを生じている。原発もそのひとつである。そこから何十回~何百回の改善を経て、その時々の設計に至るわけなのだが、その間には多くの知見が盛り込まれてゆく。それらは、ある環境条件では正しいが、他の環境条件では正しくないといった技術が多く含まれているし、新たな知見を導入する必要性も多分に存在する。Design on Liberal Arts Engineeringの発想は、この国際共同開発での実地経験と、最近頻発する大きな事故の原因究明の甘さに接したときに、現代の設計に対する根本的な不足感を痛切に感じ始めたところにある。

当初の戦略が曖昧であることは、何に起因しているのであろうか。第1に考えられるのは、戦術と戦闘への自信であると考える。その自信こそが、戦略を軽視する技術者を育ててしまったのだと思う。しかし、この生き方は日露戦争や太平洋戦争の歴史が示すように、初めは良いのだが最終結果は惨めなことになる確率が高い。戦略において敗れるという認識は、終わってみて分かることであることが多いことも、特徴であろう。
第2に考えられる原因は、専門性に固執する日本独特の文化であろう。日本では老舗が評価されるが、韓国では全く評価されないと聞いた。親の職業を継ぐのではなく、それを土台にしてより高級な職業に就くことが評価されるそうである。欧米の技術者も、この道一筋よりは、さまざまな職業を渡り歩く方が評価は高まる。一方で、我が国の多くの大企業では、いまだに終身雇用制が保たれている。

最近の米国の大学では、工学と同時にリベラルアーツを教える傾向が強まったと伝えられている。日本でのリベラルアーツは、大学入学後の一般教養課程を指す場合が多いのだが、次第に軽視されつつある。それには、人文・社会科学はもちろんだが、自然科学も含まれる。語源は古代ギリシャだが、古代ローマで市民教育として大々的に行われたそうだ。通常は、自由七科(註2)とその上位概念の哲学がセットで考えられている。つまり、リベラルアーツはものごとの根本である哲学を考えるための基礎学問になっていたわけである。そして、古代ローマ時代のArtsとは、ラテン語の技術そのものであった。
 私は、メタエンジニアリングの基本もこの自由七科+哲学であるとの考えを持っている。なぜそのように思うことになったかを説明しよう。それは、現代のイノベーションのスピードが益々速くなったことと、人間社会に及ぼす影響が益々大きくなってきたことに密接に関係する。私の小学校時代にラジオからテレビへのシフトが始まった。しかし、所謂テレビ中毒が話題になるまでには数十年を要した。1980年代にワープロからパソコンへのシフトが始まったが、完全移行には十数年を要した。現代の携帯からスマートフォンへのシフトは、わずか半年で主流交代である。そして、そのシフトは世界同時進行で起こってしまう。
 この様な状況下で、イノベーションの発信母体が自然科学とか社会科学の一分野のみに限定されていると、どういうことになるだろうか。イノベーションの母体は、その正の機能のみを強烈に宣伝する。しかし、全てのイノベーションには負の部分が存在する。従来のイノベーションは、徐々に広がるので、負の部分の研究は別の専門分野によってかなり後から進められたのだが、もはやそのようなスピードでは負の遺産が手遅れになるほどに広がってしまう。

 そこで、イノベーションと同時にメタエンジニアリング的に、潜在する問題の探究も始めなければならないと云う状況が生じている。そしてそれは、リベラルアーツの全ての分野で同時進行的に行われるべきであろう。このようなことは、随分と以前から「学際」とか、「連携」とか、「俯瞰的」という言葉のもとに行われてきた。しかし、それらの多くの分野で今回の東日本大災害の教訓として結論づけられたことは、その活動が不完全だったと云うことだった。
 この問題を、設計という分野で少し掘り下げてみよう。福島第1原発の事故も、笹子トンネルの天井板の崩落の事故も、共通の原因が見えてくる。それは、Design by Constraintsという設計だ。設計のための手法があり、マニュアルがあり、遵守すべき法律や規則が存在する。それら全てクリアーした設計を、正しい設計とする考え方である。しかし、そこには根本的な落とし穴が常に存在する。そして、そのことは現地・現物の設計に長く携わったものだけが容易に気がつくものなのである。

(註1)たった一つのサイコロを設計することを考えてみよう。一体幾つの選択と決定をしなければならないであろうか。答えは、千以上である。一つのサイコロを設計するには、材質と寸法を決める必要がある。サイコロの全ての面を削り出すと仮定してみよう。面の数は、6平面+12稜線の円筒面+8頂天の球面+6種類のサイの眼大きさ+その平面との角の丸み21か所=53
    即ち、53個の面に対してその全ての属性を決める必要がある。一つの面を定義するには、おおよそ20から30の条件を決める必要がある。材質(硬さ、強度、伸び、脆性、耐何々性など)、寸法(外形、公差、真円度、直角度、同芯度など)、表面状態(粗さ、仕上げ、波うち、傷、硬化など特殊処理など)、すべての条件の許容限度、加工と検査方法など、挙げると大体それぐらいの数になる。この数の面の数を掛け合わせると、1000から1500になる。設計者は、設計にあたって これらを全て満足する一つの回答を見出し、一つの部品が設計できる。サイコロは一見単純な形であるが、その重心を正確に中心位置に定め、かつ全ての方向の回転モーメントところがり摩擦を等しくしないと、正しいサイコロとは云えないであろう。しかし、これだけでは、必要条件ののみを満足した設計である。必要十分条件を満たすためには、一つの製品としての、安全性、調達性、製造コスト、廃棄の際の環境問題などなどがある。
     一つの部品でこのような数字なので、部品数を掛ければ、数百万~数億になってしまう。

(註2)自由七科原義は「人を自由にする学問」、それを学ぶことで非奴隷たる自由人としての教養が身につくもののことであり、起源は、古代ギリシャにまで遡る。おもに言語にかかわる3科目の「三学」(トリウィウム、trivium)とおもに数学に関わる4科目の「四科」(クワードリウィウム、quadrivium)の2つに分けられる。それぞれの内訳は、三学が文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽である。哲学は、この自由七科の上位に位置し、自由七科を統治すると考えられた。哲学はさらに神学の予備学として、論理的思考を教えるものとされる。(Wikipediaより)