「台湾の主張」[1999] 著者;李登輝
発行所;PHP研究所 1999.6.17発行
初回作成年月日;H29.2.3
この書は、図書館のリユース本放出日で入手した。当日はお年寄りが集まるのだが、目当てはかつてのベストセラーや小説。しかし、私の目当てはかつての大型本か単行本の名著なので、毎回数冊を入手することができる。これは、その中の一つだった。
台湾には数回出かけた。特に故宮博物院は4回ほど訪ねた。団体では見どころが決まるので、個人で行くことにしている。特に最上階のカフェは、雰囲気も待遇も最高で、必ず寄ることにしている。
李登輝は、その行動が日本でも新聞をにぎわした記憶があるが、じっくりと主張を知る機会は無かった。歴史的に見て、中国人(漢人)の考え方には深い興味を覚えている。日本に比べて、大陸的といえばそれまでなのだが、戦略的なところが優れているように思う。もう一つの興味は、台湾の不安定な立ち位置が、その場考学の題材になるということだ。中華民国という呼称が、いつの間にか消えたが、台湾では生きている。中華人民共和国が、そのうちに中華民国になるかもしれない。その場の判断が、他の国に比べて大きい。
彼の主張には、多くの台湾人と同じ、日本での教育の影響がある。それは、現代日本の教育ではないし、戦争中の狂信的なものでもない、冷静なものだ。そこからの、現代日本への警告も含まれている。
台湾の歴史は簡明である。16世紀に中国本土からの移民が始まり、清国の時代に急激に膨張した。
『もともと台湾に住んでいたのは先住民だけだった。その先住民も、文化的にはいくつも分かれていた少数民族の集まりだった、十七世紀頃になると、中国大陸の福建省や広東省あたりから漢民族の移住が始まり、一時的にはオランダが統治に意欲をみせ、さらには明の遺臣である鄭成功が政権をつくったこともあった。
漢民族が大勢住むようになったのは、中国が清の時代になってからである。それまではせいぜい十数万でしかなかった漢民族人口は、この時代には二百数十万に増えたと言われている。
そして、1895年には日本統治時代を迎え、1949年には中国大陸から国民党がやってきてさらにさまざまな民族・文化を受容しながら、半世紀後に現在のような「新しい台湾人」の台湾が存在するようになったのである。』(pp.196)
台湾の先住民族の複雑さには、先日の天理市の博物館で、その詳しい地図を見て驚いたほどであった。まさに、超多様性の受容になっているのだろう。また、オランダ統治時代の政庁も、無理を言って見せてもらったことがある。
冒頭では、彼の政治学が語られている。そして、「私は政治家ではない」と断言をしている。つまり、中国での政治とは、「人民を管理すること、人民をいかに支配するか」なのだが、彼の主張は、「一心一徳団結」、「中華民族の時代作り」であった。しかし、経歴は、台北市長 ⇒台湾省主席 ⇒国務大臣 ⇒副総統 ⇒総統、であった。
以下は、彼の主張を断片的に列挙する。
『大陸が現在目指している方向に根本的で深い矛盾があることも、台湾をよく見ることによって気がつくはずである。「台湾経験」すなわち「台湾モデル」とは、単に台湾のためだけものではない。中国人すべてのものであり、将来、統一された中国のモデルに他ならない。』(pp.122)
この主張で、現在の中国政府からは極端な警戒を受けていた。
この書が発行される当時の日本に対しては、「なぜ日本は停滞しているのか」の節を設けている。
『ものには順序がある。問題がつながっているからといって、あれもこれも一緒に解決するわけにはいかない。なにを先決にするか、そしてその後はどのような順序で解決してゆけば一番スムーズに運ぶのか。その優れた例を世界に示してきたのは、他ならぬ日本だったはずだ。最近の日本は、こんな初歩的なことも忘れてしまったように思われる。』(pp. 145)
まさに、戦術を始める前の、戦略的な思考だ。彼は、その主因として、世襲制が顕著な政治家とOBを主体とする官僚組織を挙げている。つまり、そのために社会全体が多様性を失っているということなのだ。そして、「強さを取り戻す方法」についても述べているが、そこは省略する。
『経済において発揮されたのも、この真面目さであり、また政治においてみられるのもこの真剣さに他ならない。しかし、こうした真面目さや真剣さによって作り上げられた各部分は優秀でも、部分を組み合わせて全体で実践に移す場合には、また別の要素が要求される。私にいわせれば、この別の要素とは、日本人が考えているような「能力」ではない。もっと精神的なもの、いわば信念といったものによって支えられているのである。』(pp. 158)
まさに、明治維新以来の日本の教育を思わせる、と同時に、これは「その場考学」とメタエンジニアリングの考え方の基本になっている。
『一生懸命に勉強し、政治の世界で必要とされることを身につけ、経済的な問題をも分かるようになって、とうとう総理大臣になることができたとしよう。それでは、この人物は何をするのだろうか。総理大臣になることが目的ならば、そこで終わりなのである。実に馬鹿げた話ではないだろうか。
目的と手段が混乱してしまい、せっかく総理大臣になってもなにをすればいいのか分からない。(中略)率直に言って、日本の政治はあまりにも行儀正しくて、非常に細かいことをきめこまかくやりすぎる。そしてまた、政治家が育っていくプロセスも同じで、あまりにも小さく細かいことにこだわりすぎる。』(pp160)
このことは、まったくその通りに、日本でのエンジニアの世界にも、会社内の上昇志向の強い人たちにも当てはまっていると思う。
このために、日本は世界で起こっていることへの大局的な見方が不得手だと指摘している。その例として、「香港の急激な変化を甘く見ている」、「シンガポール経済の借金過多企業の実態」、「北朝鮮の意図」などが挙げられている。
そして、『アメリカに対する追随外交によって、かえってアメリカというものが分からなくなっている。日本は、政治的にはアメリカのアジア戦略の中に位置づけられており、ソ連崩壊後のアメリカにおけるアジア戦略は、日本を中東まで及ぶ広い地域の中で位置づけている。』(pp. 188、順不同)
あとがきでは、このように結んである。
『もう少し若い人に引きつけていえば、自我の強すぎる人間は「自己を中心とする」観念を、「社会を中心とする」観念に切り替えることが必要だということに他ならない。自己肯定の中に社会中心の考え方を持ち込むことで、社会のために国民のために活動しようという意志と情熱が生まれるのである。現代社会の諸問題について考えても同じことがいえる。』(pp.227)
発行所;PHP研究所 1999.6.17発行
初回作成年月日;H29.2.3
この書は、図書館のリユース本放出日で入手した。当日はお年寄りが集まるのだが、目当てはかつてのベストセラーや小説。しかし、私の目当てはかつての大型本か単行本の名著なので、毎回数冊を入手することができる。これは、その中の一つだった。
台湾には数回出かけた。特に故宮博物院は4回ほど訪ねた。団体では見どころが決まるので、個人で行くことにしている。特に最上階のカフェは、雰囲気も待遇も最高で、必ず寄ることにしている。
李登輝は、その行動が日本でも新聞をにぎわした記憶があるが、じっくりと主張を知る機会は無かった。歴史的に見て、中国人(漢人)の考え方には深い興味を覚えている。日本に比べて、大陸的といえばそれまでなのだが、戦略的なところが優れているように思う。もう一つの興味は、台湾の不安定な立ち位置が、その場考学の題材になるということだ。中華民国という呼称が、いつの間にか消えたが、台湾では生きている。中華人民共和国が、そのうちに中華民国になるかもしれない。その場の判断が、他の国に比べて大きい。
彼の主張には、多くの台湾人と同じ、日本での教育の影響がある。それは、現代日本の教育ではないし、戦争中の狂信的なものでもない、冷静なものだ。そこからの、現代日本への警告も含まれている。
台湾の歴史は簡明である。16世紀に中国本土からの移民が始まり、清国の時代に急激に膨張した。
『もともと台湾に住んでいたのは先住民だけだった。その先住民も、文化的にはいくつも分かれていた少数民族の集まりだった、十七世紀頃になると、中国大陸の福建省や広東省あたりから漢民族の移住が始まり、一時的にはオランダが統治に意欲をみせ、さらには明の遺臣である鄭成功が政権をつくったこともあった。
漢民族が大勢住むようになったのは、中国が清の時代になってからである。それまではせいぜい十数万でしかなかった漢民族人口は、この時代には二百数十万に増えたと言われている。
そして、1895年には日本統治時代を迎え、1949年には中国大陸から国民党がやってきてさらにさまざまな民族・文化を受容しながら、半世紀後に現在のような「新しい台湾人」の台湾が存在するようになったのである。』(pp.196)
台湾の先住民族の複雑さには、先日の天理市の博物館で、その詳しい地図を見て驚いたほどであった。まさに、超多様性の受容になっているのだろう。また、オランダ統治時代の政庁も、無理を言って見せてもらったことがある。
冒頭では、彼の政治学が語られている。そして、「私は政治家ではない」と断言をしている。つまり、中国での政治とは、「人民を管理すること、人民をいかに支配するか」なのだが、彼の主張は、「一心一徳団結」、「中華民族の時代作り」であった。しかし、経歴は、台北市長 ⇒台湾省主席 ⇒国務大臣 ⇒副総統 ⇒総統、であった。
以下は、彼の主張を断片的に列挙する。
『大陸が現在目指している方向に根本的で深い矛盾があることも、台湾をよく見ることによって気がつくはずである。「台湾経験」すなわち「台湾モデル」とは、単に台湾のためだけものではない。中国人すべてのものであり、将来、統一された中国のモデルに他ならない。』(pp.122)
この主張で、現在の中国政府からは極端な警戒を受けていた。
この書が発行される当時の日本に対しては、「なぜ日本は停滞しているのか」の節を設けている。
『ものには順序がある。問題がつながっているからといって、あれもこれも一緒に解決するわけにはいかない。なにを先決にするか、そしてその後はどのような順序で解決してゆけば一番スムーズに運ぶのか。その優れた例を世界に示してきたのは、他ならぬ日本だったはずだ。最近の日本は、こんな初歩的なことも忘れてしまったように思われる。』(pp. 145)
まさに、戦術を始める前の、戦略的な思考だ。彼は、その主因として、世襲制が顕著な政治家とOBを主体とする官僚組織を挙げている。つまり、そのために社会全体が多様性を失っているということなのだ。そして、「強さを取り戻す方法」についても述べているが、そこは省略する。
『経済において発揮されたのも、この真面目さであり、また政治においてみられるのもこの真剣さに他ならない。しかし、こうした真面目さや真剣さによって作り上げられた各部分は優秀でも、部分を組み合わせて全体で実践に移す場合には、また別の要素が要求される。私にいわせれば、この別の要素とは、日本人が考えているような「能力」ではない。もっと精神的なもの、いわば信念といったものによって支えられているのである。』(pp. 158)
まさに、明治維新以来の日本の教育を思わせる、と同時に、これは「その場考学」とメタエンジニアリングの考え方の基本になっている。
『一生懸命に勉強し、政治の世界で必要とされることを身につけ、経済的な問題をも分かるようになって、とうとう総理大臣になることができたとしよう。それでは、この人物は何をするのだろうか。総理大臣になることが目的ならば、そこで終わりなのである。実に馬鹿げた話ではないだろうか。
目的と手段が混乱してしまい、せっかく総理大臣になってもなにをすればいいのか分からない。(中略)率直に言って、日本の政治はあまりにも行儀正しくて、非常に細かいことをきめこまかくやりすぎる。そしてまた、政治家が育っていくプロセスも同じで、あまりにも小さく細かいことにこだわりすぎる。』(pp160)
このことは、まったくその通りに、日本でのエンジニアの世界にも、会社内の上昇志向の強い人たちにも当てはまっていると思う。
このために、日本は世界で起こっていることへの大局的な見方が不得手だと指摘している。その例として、「香港の急激な変化を甘く見ている」、「シンガポール経済の借金過多企業の実態」、「北朝鮮の意図」などが挙げられている。
そして、『アメリカに対する追随外交によって、かえってアメリカというものが分からなくなっている。日本は、政治的にはアメリカのアジア戦略の中に位置づけられており、ソ連崩壊後のアメリカにおけるアジア戦略は、日本を中東まで及ぶ広い地域の中で位置づけている。』(pp. 188、順不同)
あとがきでは、このように結んである。
『もう少し若い人に引きつけていえば、自我の強すぎる人間は「自己を中心とする」観念を、「社会を中心とする」観念に切り替えることが必要だということに他ならない。自己肯定の中に社会中心の考え方を持ち込むことで、社会のために国民のために活動しようという意志と情熱が生まれるのである。現代社会の諸問題について考えても同じことがいえる。』(pp.227)