生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

その場考学との徘徊(47) 秋の三都徘徊(その1) 

2018年11月23日 07時38分03秒 | その場考学との徘徊
その場考学との徘徊(47)  
題名;秋の三都徘徊(その1)


場所;京都府 年月日;H30.11.12
テーマ;密教寺院  
作成日;H30.11.22 アップロード日;H30.11.23
                                                      
TITLE: 密教寺院の御仏

山科の南の有名な醍醐寺に向かったのは、ようやく紅葉が始まった秋の半ばだった。

11:29 京都駅発の普通電車。



11:43 山科で地下鉄に乗り換えて発車。「醍醐」駅まで8分。

駅前の歩道橋がそのまま東に向かって真っすぐに続いている。
至って歩きやすい道で、山並みに向かうので、心も和む。



駅から醍醐寺までは1km強。古い地図には全く載っていない団地の中の広い遊歩道を進んだ。
途中の自販機で飲み物を調達。



ようやく総門に到着。人影はまばらだ。秀吉が有名な「醍醐の花見」を催した風景を空想しながら進む。広い参道はそのころからのものなのだろうか。



醍醐寺の宝物館は「霊宝館」と呼ばれている。広くて、ゆったりとしている。入口にビラが貼ってあった、「水晶内の阿弥陀仏」これがお目当ての仏像だ。



説明用のビラには次のようなことが記されている。

『水晶宝寵入り木造阿弥陀如来像(全体)快慶作か?阿弥陀如来の小像 初公開

蓮華のつぼみの形をした透明な水晶のなかに、巧妙におさめられた金色に輝く阿弥陀如来の小像。
日本の仏像の歴史上でも、ほかに例のないこのめずらしい仏像は、一時は上醍醐清瀧宮に伝わり
平成の仏像調査の機会に再発見され、10年余にわたる研究によって、その全貌が平成30年春刊行の
『醍醐寺叢書醍醐寺の仏像』第1巻如来のなかで初めて紹介されました。』とある。

まさに、数百年ぶりにお出ましになった、稀有の像なのだ。
蓮のつぼみの形に削られた水晶の中をくり抜き、その中に木造の5cm程の像が収められている。
更に説明では、

『鎌倉時代初期に造られたこの仏像は、すぐれたできばえから、当時、活躍した名仏師快慶の手になる可能性も考えられています。 阿弥陀如来像は水晶のなかで微妙なパランスで自立しているために、長距離の移動がむずかしく、これまでどの寺宝展にも出陳されたことがありません。
霊宝館では、今回、初公開となるこの仏像を、調査、研究の際に撮影された精細な画像とともに、ご参拝の皆様に公開いたします。 この機会に、貴重な阿弥陀如来像の全貌をあますところなくご覧ください。』
とあった。

さらに詳しい説明は、売店で求めた15ページにわたる「図録」に述べられている。



副島弘道氏の「解説」には、次のような記述がある。

『一燭台のような意圧一
高さ35cm、木製の蓮華形の台の上に銅製の柱が立ち、その上にのった透明なつぼみ形の水晶の中には阿弥陀如来像が金色に輝いている。蓮台には雄しべが刻まれ、その中央に銅の柱を囲んで水柱が立ち、茶色にうねる茎が柱にからんで伸びている。その先には蓮葉が付いていたはずだ。』
 残念ながら、どのような蓮の葉がついていたのかは、知る由もない。さらに続けて、

『蓮台の水柱は水晶のつぼみが今まさに水面から出現したようすを示すのだろうか。 蓮華は仏像の台座など、仏教美術にはよく見られ、古代の中央ァジアでも蓮台の上に天人や菩薩が 誕生する姿の絵が描かれた。』
とある。このような仏教美術作品は、他に例がないであろうとも記されている。

この像が発見されたのは、平成14年で、なんと22回目の調査の際に、ようやく木箱から取り出されたとある。しかし、その先がまた大変だったようだ。

『正しい姿は、水晶をとおしてでななく、阿弥陀如来像を直接に観察しないとわからない。 ところが水晶の宝甕はその下の銅筒からは簡単にははずれない。像を再び木箱に納め、再度の機会を待 つことになった。
その後、何度も木箱の中の作品を見ながら考えたが、水晶を銅筒からようやく取りはずせたのは、 発見後約10年を経た平成23年のことだった。木製の台座から水柱と銅筒をはずす。銅筒の下部にある目釘を抜いて筒を下に抜くと、中から漆塗りの細い木を5本組んで、・・・・。』



 その細い木が左の図なのだが、箱根の寄木細工の箱を思い出す。最初の動かすもの、この場合は「目釘」を外せば、後は順番にスムースに抜けるはずなのだが。
この像は、ほんとうに素晴らしかった。

続いて諸像や絵画が並ぶ奥の間に入った。ゆったりとした配置で、落ち着いてみることができる。
記憶に残るのは、「降三世明王」。売店で尋ねたのだが、残念ながら、この像の絵ハガキはなかった。
踏みつけられているのが、邪鬼ではなく、2人の菩薩なのだ。



Wikipediaには、このような説明がある。
『降三世はサンスクリット語で、トライローキヤ・ヴィジャヤ(三界の勝利者 Trailokyavijaya)といい、正確には「三千世界の支配者シヴァを倒した勝利者」の意味。
経典によっては、そのまま、孫婆明王(そんばみょうおう)とも、後期密教の十忿怒尊ではシュンバ・ラージャ (Śumbharāja)とも呼ばれる。 その成立は、古代インド神話に登場するシュンバ (Śumbha)、ニシュンバ (Niśumbha) というアスラの兄弟に関係し、密教の確立とともに仏教に包括された仏尊である。』

 踏みつけられている、2人の菩薩とも思える男女が気になるので、さらに調べてみると、この明王は、「ヒンドウー教より仏教が優れていることを示すためのもの」との説明があった。仏教の神々がいかに強いものかを示すものだそうだ。7~8世紀にかけて作られるようになったとある。

三宝院の有名な太閤桜は、台風21号の風で無残に折れていた。大きな枝を短く切ったままで放置されている。この風景は、京都のあちこちで見ることになる。





書院や唐門は無事だったようで、庭園も整備されている。





有名な、五重塔と九輪をゆっくりと眺めて戻ることにした。ここまで既に8900歩、奥の院まで登ってゆく力は残っていない。




帰り道は、見事な林だった参道の両側の無残な様子を見ながらだった。入口には、数枚の直後の写真も示されていた。