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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼(96)「森鴎外の帝都地図」

2018年11月04日 07時50分47秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼(96)「森鴎外の帝都地図」        

TITLE: 書籍名; 「森鴎外の帝都地図」[2011]
著者;秋庭 俊
発行所;洋泉社    2011.11.9発行

初回作成年月日;H30.11.2  最終改定日;
引用先; TBD



この書は、謎解きを目的としている。なぜ、森鴎外という人物が、1909(明治42年)に、「東京方眼図」という謎めいた地図を「森林太郎立案」と書いて発行しようとしたのかという謎だ。

地図は、ほぼ現在の山手線の範囲が示されているのだが、おかしな表記や記号が散乱している。例えば、こうである。

『文字や記号の謎については、これから順次、紹介していくが、 この地図では上野公園に「上」の字がなく、「野公園」とある 。馬場先門には「門」の字がなく、「馬場先」である。「い六」の
方眼には「新橋」という字が上下逆さに書かれて 、しかも、そこは「新橋」ではないのである。
さらに、白山神社や日枝神社には赤い鳥居のマークがあるが、根津神社や東照宮には鳥居がない。
この地図には、赤丸や赤い三角、赤い×や旗のようなマークまであるが、それは地図記号には存在しないもので、 しかもどこにも説明がないのである。』(pp.4)
つまり、地図のルールからは、かなり外れた地図なのである。

『すなわち、この地図は特別な目的のために作られている、と考えられるのである。かつてレオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」などに残した暗号がダ・ヴィンチ・コードなら、この地図の多くの謎は「鵬外コード」と呼べるのではないだろうか。本書は、そのコードを解き明かそうというものである。』(pp.6)
 著者は、ここでダ・ヴィンチ・コードを持ち出して、読者の興味をそそろうとしている。

『つまり、この地図は東京の地下を描くという、特別な目的のために作られていた。それは当然のことながら、公式の歴史とは異なっているが、本書はかつて江戸という都市がどのように築 かれ、明治時代にその地下がどう改造され、また、鵬外がそれにどうかかわっていて、なぜ、鴎外がこのような地図を作るに至ったかということを、歴史上の文書、資料、法律などから解明し ようというものである。』(pp.8)

地図の目的は、こうである。しかし、なぜ当時の森鴎外がこのようなものを創ったのか。

先ずは、古代ヨーロッパの水道の説明から始まっている。
『古代ローマはわずか十キロ四方の大きさだったが、全長二百七十キロにも及ぶ水道が敷設されていた。それは水道網が左のような形(12角形の星形)だったからで、 ローマもパリも、ロンドンも、いまのトルコのイスタンブールでも、形に多少の差はあれ、旧市街には同様の水道網が敷設されていたはずである』(pp.44)

そして、複雑な水路の維持管理や、非常時の軍事目的のために、地下水路には様々な工夫が盛り込まれていることを解説している。

『この軍事的な成功を収めた理由には、水路の柱一本一本にアルファベットや番号がつけられていたことも挙げられる。長期間、水路を維持・管理していくには保守点検や補修工事が不可欠で、そのためには柱を特定しておく必要があった。つまり、先の十二角形の中心や頂点のひとつひとつにアルファベットがつけられていて、同帝国ではそれをひそかに地上の町名や建築物名に入れ込んでいたのである。すなわち、たとえばその教会の名称に「AB」がついているから、その教会が大きな十二角形のどの位置にあたり、どの方向に地下道が延びているかということを、ローマ軍は地上にいながら、わかっていたのである。これが地下を表す暗号の入った地図、暗号地図の起源だといわれている。』(pp.46)

ここで、「同帝国ではそれをひそかに地上の町名や建築物名に入れ込んでいたのである。」は、
後の地図の説明への伏線だった。
これらのことは、江戸初期に特に徳川家康によって、江戸の基本設計に盛り込まれていたというわけである。例えば、高輪の高野山別院の巨大な地下構造を挙げている。また、その時代に突然建立された、神田明神、湯島天神、上野東照宮、谷中天王寺などの場所との関連と、その重要性を説明している。すべて、上水路と関連しているというわけである。

『そう考えると、家康が高虎に任せていた江戸城の改築というのは、江戸城から延びていた地下通路の組み替えをおもに意味していたもので、それゆえ築城の名手高虎が東照宮を建築していたこと、二つの東照宮が十二時半の角度にあって、大手門からの距離がぴたりと等しいこと、さらには、東照宮が建設されては解体され、場所が変わっていたことも、同じ都市のほぼ同時期に 同じ神社がいくつも建てられていたことも、すべて納得がいくのではないだろうか。
もちろん、それは江戸城の防衛に直轄する問題だから、極秘中の極秘だったに違いなく、それ ゆえ、のちに建てられた日光東照宮には「見ざる、聞かざる、言わざる」という東照宮の掟が刻 まれていたのではなかったのか。』(pp.106)
すこし、飛躍があるようだが、状水路の重要分岐点に神社を立てたことは、間違えがないのかもしれない。「高虎」とは、築城の名手と云われた、藤堂高虎だ。

上水路の経由の道筋は、重要であり、管理者は誰でも頭の中に入っていなければならない。そのために、水路に沿った場所の名前も、覚えやすいように決めてあったというわけである。そのために、日本では、アルファベットの代わりに、「かごめかごめ」と「通りゃんせ」の歌詞が使われているという。
例えば、「いついつでやる」は、水路が、一ツ木町 ⇒二ツ木町 ⇒帝国ホテル ⇒八幡町と連なっているというわけである。しかし、これはできすぎだ。確かに、自分の地域の上流が、どのような経路かは頭に入れておく必要がある。何らかの覚えやすい符牒が必要で、それがたまたまこの歌詞だったのだろう。

後半は、鴎外が軍医からドイツ留学をした経緯が示されている。そのことが、この地図の作成意図に、深くかかわっているというわけである。

『十歳のとき父親とともに上京し、本郷の私塾・進文学社からいまの東大医学部へと進んでいる。 八―(明治十四)年、東大を卒業して陸軍の軍医となり、八四(明治十七)年、ドイツに留学。専門分野は公衆衛生であた。 公衆衛生という学間は、当時、最新の分野だった。十九世紀後半、ヨーロッパはくりかえしコレラの流行に見舞われていたが、その原因も、感染のメカニズムも、解明されていなかった。』(pp.184)

彼は、公衆衛生に力を入れており、当時のヨーロッパで最大の問題であった、コレラの伝染を防ぐ具体的な施策を考えていた。当時のヨーロッパでは、下水道と上水道のどちらが有効かの議論の最中だったそうだ。

『その論争のまっただなかのドイツに留学した鵬外は、まず、下水の整備にかけては世界的な権威だった近代衛生学の祖ペッテンコーファーのもとで学び、ベルリンなどドイツの都市で行なわれていた地ド水路の整理と下水整備の状況を視察している。そして翌年になると、北里柴三郎とともにコッホの衛生試験所に移り、医学界の主流となったコッホの公衆衛生を学んで、一八八八(明治二十―年)に帰国した。』(pp.185)

帰国した彼は、下水道整備を進言したが、時の政府は、富国強兵に熱心だった。そして、彼の明治政府への非難が始まったとしている。彼の弟は、「市区改正痴人夢」という戯曲を発表して。山縣有朋を風刺したとあるが、これは、夏目漱石が坊ちゃんで使ったのと、同じ手法だった。

 『くりかスしになるが 、江戸城はオランダ式築城術で建てられ、江戸という都市には 江戸初期に都市建設が始まったときから上水と呼ばれる水道が整備されていた、と考えられる。当時の上水は、水道とはいっても、 現在の金属製水道管に圧力をかけて台地の上やビルの最上階まで水を押 し上げる加圧式ではなく、高いところから低いところへ水を流すという単純なものだったため、正確な測量にもとづいて水路が敷設されていた。
地上に水路が敷設され、そのわきに柱が立てられ、屋根の上に大量の土や石が積まれる。つま
り、人工的に作られた地下水路の上に、江戸という都市が築かれていた。』(pp.188)

最後に結論的に、このような文章かある。
『したがって、『東京方眼図』で江戸時代の初めから隠されてきた、江戸、東京の地下の真実を巧みな表現で明らかにしていることも、軍機保護法にふれる恐れのある行為である。しかし、鴎外はそれを承知で『東京方眼図』を出版したのだと思う。それは、まさに明治政府への、’大いなる挑戦)だったといえよう。
「東京方眼図」は新聞で発表するはずだった。
出版された『東京方眼図』は、一枚の地図をこまかく切って綴じたような本で、誰が見ても使いづらい地図であり、鴎外の強い思いを表現した作品としては、正直いって、さびしいものだ。 本来なら新聞に発表されていたのではないか、と私は思っている。 なぜなら、その主張を広く国民に訴えようとすれば、当時、唯一のマスコミだった新聞がもっとも理想的な場だったからである。 加えて、新たに見つかった一枚図は新聞の見開きニページの 大きさに作られていることから、新聞の紙面に印刷されるか、綴じ込まれることを想定して作られた、と思われるのだ。』(pp.194)

この地図は、さしたる影響がなかったようで、鴎外は、翌年に小説を発表することになる。その著作の「青年」は、次の文章で始まっている。
『小泉純一ば芝日陰町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留所から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、 追分から高等学校に附いて右に曲がって、観津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。』

この小説には、膨大な注釈がついている。この最初の文章についての注釈は、このようである。
『注解
*芝鷺蔭町  東京都港区にあった旧町名。新橋二、三丁昌の一部。
*東京方眼図 森鴎外立案の「東京方眼図」は明治四十二(1909)年八月、春陽堂から出版された。
明治末期の東京都心を、赤い経線で縦はイ~ チの八個のマス目に、横は1~11の十一個のマス目にわけ、柵子本の地名索引から地名を検索できるようにした地図。留学中に目にしたドイツのガイドプソク「ベデカ」から着想を得たといわれている。
*新橋停留場  東京都港区東新橋にあった汐留駅の旧称。明治五年に日本初の鉄道始発駅として開設された。
*目まぐろしい  「めまかぐるしい(目紛)」と同義。目の前をいろいろなものが次から次へ
と移り変わり、目の回るような感じ。』更に、*須田町、*本郷三丁目の注解が続いている。

 本文よりも、注釈の方が長い。しかも、場所に関する説明が圧倒的に多い。そして、第一ページからの「東京方眼図」の詳しい説明である。このことから、鴎外が、「東京方眼図」をなんとか公衆に理解してもらいたいとの気持ちを持ち続けていたように思われる。

Wikoipediaには、次のようにある。
『『青年』(せいねん)は、森鴎外の長編小説。1910年3月から翌年8月まで「スバル」に連載。一青年の心の悩みと成長を描き、利他的個人主義を主張した作品。夏目漱石の『三四郎』(1908年新聞連載)に影響されて書かれたもので、ともに青春小説の代表作。』

かつて江戸という都市がどのように築かれ、明治時代にその地下がどう改造され高については、水道歴史館(お茶の水駅近く)に実物と資料がある。しかし、そこには鵬外がそれにどうかかわっていてかについては、何もない。
明治時代の、メタエンジニアの姿がここにも表れている。