その場考学研究所 メタエンジニアの眼シリーズ(54)
TITLE: 人類の人類の歴史と文明論
『その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである』という最後の言葉は,まさにメタエンジニアリングの目指すべきことを表している。
① 書籍名;「人類5万年 文明の興亡」[2014] KMB3402
著者;イアン・モリス 発行所;筑摩書房 発行日;2014.3.25
初回作成年月日;H29.12.8 最終改定日;H29.12.11
引用先;文化の文明化のプロセス Converging 文明の攻防
② 書籍名;「人類一万年文明論」[2017] KMB3406
著者;安田喜憲 発行所;東洋経済新報社 発行日;2017.10.5
初回作成年月日;H29.12.8 最終改定日;H29.12.11
引用先;文化の文明化のプロセス Converging 文明の攻防
ドイツの哲学者シュペングラーの代表作である「西洋の没落 Der Untergang des Abendlandes」の第1巻「形態と現実」は1918に発行された。ちょうど1世紀前である。「ローマクラブが成長の限界」を発表してからも、半世紀近くになる。この間に多くの文明に関する著書が発行されたが、最近の内容はこの二つを肯定することで一致している。勿論、理由は様々なのだが、大きく分けて二つになってしまうように思う。西欧発の一神教哲学に基づくものと、自然との融合を目指す多神教文化に基づくものだ。この①と②の著書は、その題名からもそれぞれを代表しているように思う。
①の著者は、スタンフォード大学の歴史学の教授で、博士号はケンブリッジ大学の考古学で取得している。アメリカで、ペンクラブ賞などを受賞。根っからの西欧人種だ。従って、この書は、②の安田喜憲著「人類一万年文明論」[2017]との比較が面白い。どちらも、それぞれの立場で現在までの人類の文明の歴史を踏まえて、新たな視点で議論を展開している。さらに、一方は西欧の思考法を、他方は東洋的・日本的な思考法で将来を見据えている。
②の下巻の「訳者あとがき」には、次のようにある。
『なぜ西洋が世界を支配しているのかという間いに対しては、八世紀以降、様々な議論が繰り広げられている。しかし、著者はそのどれもが、前提となる歴史の全体像を正しく理解していないと指摘する。もっぱら先史時代と近代以降を対象とし、その間の数千年についてほとんど語っていないからだ。これを踏まえ、人類史全体をーつの物譜として見るために著者が出発点としたのは、束洋と西洋に何ら区別がなかった時代十五万年前だ12000年前に農耕が始まると、ユーラシア大陸の西端に位置する「河沿いの丘陵地帯」と東端に位置する長江、黄洞流域で文明が発展した。この二つのオリジナル、コアから派生した社会を、著者は「西洋」、「東洋」と呼ぶ。 束洋と西洋を比較するために用いられているのは、国連の人間開発指数にヒントを得た「社会発 展指数」である。「エネルギー獲得量、組織化、戦争遂行力、情報技術」という四つの特性を点数化し加算したもので、それぞれの時代における東洋と西洋の社会発展の度合いを定鍛的に測定できる(なお、2013年には「社会発展指数」を詳細に解説した、“The Measure of Civilization; How Social Development Decides the Fate of Nation”が出版されている.
最終氷期が終わる頃、気候と生態系の変化によって酉洋は東洋よりも早く発展した。その後両者の社会発展指数の差は広がったときもあれば縮んだときもある。五五〇年頃には差はまったく消えてしまい、その後の1200年間は東洋が優位に立っていた。一五世紀に東洋がアメリカ大陸を発見する可能性はあったが、地理ゆえに西洋が先んじた。』(下P388)
先ずは、「社会発展指数」などという一方的な指数を定義して、それで文明の度合いを測っている。指数に含まれない項目は、一切かかわりないというわけだ。「まえがき」で、様々な専門家(植物学、動物学、化学、地質学、地理学など)を集めて云々と語っているのとは矛盾する。
著者は、文明の興亡の分析に際して、3つの視点を強調している。「発展のパラドックス」、「後進性の有利」、「地理学の法則」の3つである。
「発展のパラドックス」とは、社会が発展すると、それを妨げる力が生まれる。人々に困難な選択を迫る。そこで、ゲームチェンジができるかどうかである。(上P036)
「後進性の有利」とは、社会の発展に従って、必要なリソースが変化し、インフラも発達する。
そうなると、かつてそれほど重要視されなかった地域が、その後進性に優位が見いだされるというわけである。(上P042)アメリカ大陸などを念頭にしてのことだと思われる。
つまり、最も先進的な地域は、時とともに移動する。
「地理学の法則」とは、その時代の主たる交通手段によって、発展に差異が生じるというものである。(上P046)
単純化すると、文明の興亡は、経済的な豊かさと武力の大きさで決まるというわけである。これは、東洋的な「文明」の定義とは異なるし、はたして将来もそうであろうかといった疑問が生じる。
下巻の最終章の「・・・今のところは」では、一転して二酸化炭素濃度の増加により、海面上昇と異常気象は避けようもなく、世界全体が悲惨な状態になるとしている。近代西欧哲学的な考え方では、文明の行く先は悲惨なものとしか、言いようがないかのようであった。
一方で、②の著者は、日本の文明論の最高権威といっても過言でない。多数の著書に加えて、紫綬褒章を受けている。この著書はコラム風の文章を集めたようなものなのだが、それらの集大成のように思う。本書の副題は、「環境考古学からの警鐘」とあるのだが、メタエンジニアリングとしては、「警鐘」ではこまってしまう。警鐘は過去のもので、もはやImplementingのステージが求められている。
「はじめに」はエネルギー論から始まっている。
『ローマ文明の興亡にもエネルギーの在り方が深くかかわっていた。とりわけ森林がエネル ギーであった時代には、森林の荒廃と文明の盛衰(安田喜憲『森林の荒廃と文明の盛衰』思索
社、1988)は深くかかわっていた。イースター島のモアイの文明のように、絶海の孤島の森を破壊し尽くしてエネルギー資源を失った文明は衰亡していった(安田喜憲 『環境考古学のすすめ』丸善ライブラリー、2001)。』(pp.3)
そして、「力と闘争の文明」はもう結構で、「一神教の文明が抱えた闇」は深い、と述べている。これは、西欧型の文明の本質の将来は無いとの断言と思う。
本書の明確な主張は、ほぼすべての日本発の文明論を踏まえたうえで、川勝平太氏の「文明の海洋史観」を拡張した「環太平洋文明圏」だと思う。日本の縄文文明と、長江文明・クメール文明・マオリ文明・アンデス文明・マヤ文明を組み合わせたものだ。共通するものの一つは、「蛇の文様」のようだ。つまり、再生を伴う自然界の輪廻を重要視している。
エネルギー論から始まる持続的文明のキーワードは、「森を守る」で、イースター島の森林破壊と、タヒチや日本の森を守った歴史の結果による文明の継続性との差異を重要視している。(pp.122)
第5章の「生命文明の時代」では、その構築のプロセスとして以下のように述べている。
『いかなるテクノロジーに立脚した国家を発展させれば、豊かさを求めてやまないこの人間の 欲望をコントロールできるのか。 いかなるテクノロジーを発展させいかなる国家を構築すれば、人間は自然と共生することに生きる喜びを心底感じることができるのか。いかなる文明を構築すれば、環境と経済を両立させることに夢を抱き、人問は持続型文明社会に向かって満進できるのか。いかなる国家を目指せば、人間は自らの育った風土と伝統文化に愛着と誇りを持つことができ、豊かで安寧な地域社会を構築できるのか。
現代文明は「物質エネルギー文明」の段階から「情報文明」にようやく突人した段階である。 しかし、地球環境問題に端を発する人間生存と環境の危機は、「物質エネルギー文明」と「情報文明」のみでは、もはや近未来の文明を持続的に維持できない。ではどうすればこの自然と人間の危機を克服し、持続型の文明社会を構築できるのか。その一つの解決策として新たな「生命文明」の構築に向けた国家戦略が必要である。
これまでの文明とテクノロジーのなかで大きく欠落していたのは生命への視点・生命への畏 敬の念である。それは人間の生命だけではない、生きとし生けるものの生命の輝きに感動し、 いや生命を生み出す山や川にいたるまで、この地上の生命を輝かせ、その生命の輝きが美しい 生命世界を構築することに最大の価値を置く文明とテクノロジーを発達させることが必要なのである。 その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである。』(pp.248)
これは「アミニズム世界観」という言葉で言い表されている。つまり、人間界は自然界の一部分であり、決して自然界を支配するために作られたものではない。そこに、西欧型一神教哲学との大きな差異がある。
『その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである』という最後の言葉は,まさにメタエンジニアリングの目指すべきことを表している。
TITLE: 人類の人類の歴史と文明論
『その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである』という最後の言葉は,まさにメタエンジニアリングの目指すべきことを表している。
① 書籍名;「人類5万年 文明の興亡」[2014] KMB3402
著者;イアン・モリス 発行所;筑摩書房 発行日;2014.3.25
初回作成年月日;H29.12.8 最終改定日;H29.12.11
引用先;文化の文明化のプロセス Converging 文明の攻防
② 書籍名;「人類一万年文明論」[2017] KMB3406
著者;安田喜憲 発行所;東洋経済新報社 発行日;2017.10.5
初回作成年月日;H29.12.8 最終改定日;H29.12.11
引用先;文化の文明化のプロセス Converging 文明の攻防
ドイツの哲学者シュペングラーの代表作である「西洋の没落 Der Untergang des Abendlandes」の第1巻「形態と現実」は1918に発行された。ちょうど1世紀前である。「ローマクラブが成長の限界」を発表してからも、半世紀近くになる。この間に多くの文明に関する著書が発行されたが、最近の内容はこの二つを肯定することで一致している。勿論、理由は様々なのだが、大きく分けて二つになってしまうように思う。西欧発の一神教哲学に基づくものと、自然との融合を目指す多神教文化に基づくものだ。この①と②の著書は、その題名からもそれぞれを代表しているように思う。
①の著者は、スタンフォード大学の歴史学の教授で、博士号はケンブリッジ大学の考古学で取得している。アメリカで、ペンクラブ賞などを受賞。根っからの西欧人種だ。従って、この書は、②の安田喜憲著「人類一万年文明論」[2017]との比較が面白い。どちらも、それぞれの立場で現在までの人類の文明の歴史を踏まえて、新たな視点で議論を展開している。さらに、一方は西欧の思考法を、他方は東洋的・日本的な思考法で将来を見据えている。
②の下巻の「訳者あとがき」には、次のようにある。
『なぜ西洋が世界を支配しているのかという間いに対しては、八世紀以降、様々な議論が繰り広げられている。しかし、著者はそのどれもが、前提となる歴史の全体像を正しく理解していないと指摘する。もっぱら先史時代と近代以降を対象とし、その間の数千年についてほとんど語っていないからだ。これを踏まえ、人類史全体をーつの物譜として見るために著者が出発点としたのは、束洋と西洋に何ら区別がなかった時代十五万年前だ12000年前に農耕が始まると、ユーラシア大陸の西端に位置する「河沿いの丘陵地帯」と東端に位置する長江、黄洞流域で文明が発展した。この二つのオリジナル、コアから派生した社会を、著者は「西洋」、「東洋」と呼ぶ。 束洋と西洋を比較するために用いられているのは、国連の人間開発指数にヒントを得た「社会発 展指数」である。「エネルギー獲得量、組織化、戦争遂行力、情報技術」という四つの特性を点数化し加算したもので、それぞれの時代における東洋と西洋の社会発展の度合いを定鍛的に測定できる(なお、2013年には「社会発展指数」を詳細に解説した、“The Measure of Civilization; How Social Development Decides the Fate of Nation”が出版されている.
最終氷期が終わる頃、気候と生態系の変化によって酉洋は東洋よりも早く発展した。その後両者の社会発展指数の差は広がったときもあれば縮んだときもある。五五〇年頃には差はまったく消えてしまい、その後の1200年間は東洋が優位に立っていた。一五世紀に東洋がアメリカ大陸を発見する可能性はあったが、地理ゆえに西洋が先んじた。』(下P388)
先ずは、「社会発展指数」などという一方的な指数を定義して、それで文明の度合いを測っている。指数に含まれない項目は、一切かかわりないというわけだ。「まえがき」で、様々な専門家(植物学、動物学、化学、地質学、地理学など)を集めて云々と語っているのとは矛盾する。
著者は、文明の興亡の分析に際して、3つの視点を強調している。「発展のパラドックス」、「後進性の有利」、「地理学の法則」の3つである。
「発展のパラドックス」とは、社会が発展すると、それを妨げる力が生まれる。人々に困難な選択を迫る。そこで、ゲームチェンジができるかどうかである。(上P036)
「後進性の有利」とは、社会の発展に従って、必要なリソースが変化し、インフラも発達する。
そうなると、かつてそれほど重要視されなかった地域が、その後進性に優位が見いだされるというわけである。(上P042)アメリカ大陸などを念頭にしてのことだと思われる。
つまり、最も先進的な地域は、時とともに移動する。
「地理学の法則」とは、その時代の主たる交通手段によって、発展に差異が生じるというものである。(上P046)
単純化すると、文明の興亡は、経済的な豊かさと武力の大きさで決まるというわけである。これは、東洋的な「文明」の定義とは異なるし、はたして将来もそうであろうかといった疑問が生じる。
下巻の最終章の「・・・今のところは」では、一転して二酸化炭素濃度の増加により、海面上昇と異常気象は避けようもなく、世界全体が悲惨な状態になるとしている。近代西欧哲学的な考え方では、文明の行く先は悲惨なものとしか、言いようがないかのようであった。
一方で、②の著者は、日本の文明論の最高権威といっても過言でない。多数の著書に加えて、紫綬褒章を受けている。この著書はコラム風の文章を集めたようなものなのだが、それらの集大成のように思う。本書の副題は、「環境考古学からの警鐘」とあるのだが、メタエンジニアリングとしては、「警鐘」ではこまってしまう。警鐘は過去のもので、もはやImplementingのステージが求められている。
「はじめに」はエネルギー論から始まっている。
『ローマ文明の興亡にもエネルギーの在り方が深くかかわっていた。とりわけ森林がエネル ギーであった時代には、森林の荒廃と文明の盛衰(安田喜憲『森林の荒廃と文明の盛衰』思索
社、1988)は深くかかわっていた。イースター島のモアイの文明のように、絶海の孤島の森を破壊し尽くしてエネルギー資源を失った文明は衰亡していった(安田喜憲 『環境考古学のすすめ』丸善ライブラリー、2001)。』(pp.3)
そして、「力と闘争の文明」はもう結構で、「一神教の文明が抱えた闇」は深い、と述べている。これは、西欧型の文明の本質の将来は無いとの断言と思う。
本書の明確な主張は、ほぼすべての日本発の文明論を踏まえたうえで、川勝平太氏の「文明の海洋史観」を拡張した「環太平洋文明圏」だと思う。日本の縄文文明と、長江文明・クメール文明・マオリ文明・アンデス文明・マヤ文明を組み合わせたものだ。共通するものの一つは、「蛇の文様」のようだ。つまり、再生を伴う自然界の輪廻を重要視している。
エネルギー論から始まる持続的文明のキーワードは、「森を守る」で、イースター島の森林破壊と、タヒチや日本の森を守った歴史の結果による文明の継続性との差異を重要視している。(pp.122)
第5章の「生命文明の時代」では、その構築のプロセスとして以下のように述べている。
『いかなるテクノロジーに立脚した国家を発展させれば、豊かさを求めてやまないこの人間の 欲望をコントロールできるのか。 いかなるテクノロジーを発展させいかなる国家を構築すれば、人間は自然と共生することに生きる喜びを心底感じることができるのか。いかなる文明を構築すれば、環境と経済を両立させることに夢を抱き、人問は持続型文明社会に向かって満進できるのか。いかなる国家を目指せば、人間は自らの育った風土と伝統文化に愛着と誇りを持つことができ、豊かで安寧な地域社会を構築できるのか。
現代文明は「物質エネルギー文明」の段階から「情報文明」にようやく突人した段階である。 しかし、地球環境問題に端を発する人間生存と環境の危機は、「物質エネルギー文明」と「情報文明」のみでは、もはや近未来の文明を持続的に維持できない。ではどうすればこの自然と人間の危機を克服し、持続型の文明社会を構築できるのか。その一つの解決策として新たな「生命文明」の構築に向けた国家戦略が必要である。
これまでの文明とテクノロジーのなかで大きく欠落していたのは生命への視点・生命への畏 敬の念である。それは人間の生命だけではない、生きとし生けるものの生命の輝きに感動し、 いや生命を生み出す山や川にいたるまで、この地上の生命を輝かせ、その生命の輝きが美しい 生命世界を構築することに最大の価値を置く文明とテクノロジーを発達させることが必要なのである。 その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである。』(pp.248)
これは「アミニズム世界観」という言葉で言い表されている。つまり、人間界は自然界の一部分であり、決して自然界を支配するために作られたものではない。そこに、西欧型一神教哲学との大きな差異がある。
『その生命に畏敬の念を持つテクノロジーに立脚したものづくりによって新たな「生命文明」を構築できれば、この地球環境と文明の危機は克服できるはずである』という最後の言葉は,まさにメタエンジニアリングの目指すべきことを表している。
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