大転換の周期 KMM3260
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
「大転換」と名付けられた著書が多数発刊された。調べてみると、同じ題名の本は、世田谷区図書館に14冊、杉並木図書館に10冊ある。「大転換」はやりだ。それらの中から、3冊を選んで纏めてみた。その場考的には、転換の周期とタイミンギが問題だ。
・第1の書
書籍名;「大転換」[2009]
著者;佐伯啓思 発行所;NTT出版 発行日;2009.3.30
初回作成年月日;H29.2.16 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
この書は、副題を「文明の破綻としての経済危機」として、新たな社会への転換の時期を迎えたと主張している。当時、氏は京都大学大学院人間・環境学研究科教授で社会経済学・経済思想史などを専門とする
「大転換」という言葉は、次の著書(第2の書として紹介)からの借り物であり、現代は当時よりもさらに大きな大転換の時を迎えているとの主張なのだ。
Wikipediaの「概要」には次のようにある。『ハンガリーからイギリス、アメリカへと渡ったポランニーが、研究成果として第2次世界大戦中に執筆した。人間の経済は社会関係の中に沈み込んでおり、市場経済は人類史において特別な制度であるとした。そして、市場経済の世界規模の拡大により社会は破局的混乱にさらされ、やがて市場経済自体のメカニズムが引き起こした緊張によって崩壊したと論じた。市場経済が世界規模で進む様子をウィリアム・ブレイクの言葉を借りて「悪魔のひき臼」と呼び、市場社会の崩壊と複合社会への揺り戻しを、書名にも用いられている「大転換」(Great Transformation) という言葉で表現した。』
マルクス主義とケインズ論が、20世紀の世界経済の状態の変動に、いかに機能したかを詳細に述べたのちに、経済の現状についてこのように述べている。
『反マルクス主義の拠点であり、自由な資本主義の牙城であるアメリカで、こともあろうに、マルクスの予言がかなりの程度、実現してしまったのである。あらゆるものを商品化して無政府的な運動を展開する純粋資本主義はきわめて不安定である、といったものがマルクスの予想であった。
しかも、この矛盾は、金融恐慌と、労働をめぐる階級闘争、すなわち所得格差において最も顕著にしめされる、というのがマルクス主義の考え方なのである。この矛盾が典型的に表出しているのが、もっとも高度に資本主義が展開されたアメリカのほかならない。たいへんな皮肉と言わざるを得ない。』(pp.23)
ここで、「無政府的」という言葉に、「グローバル」というルビを振っているのも、皮肉に見えてくる。階級闘争は、格差闘争として2016年のアメリカの大統領選挙に際して現実に現れた。
彼は、原因の一つを、「マクロとミクロの合理性」にあるとしている。
『個別主体の「ミクロ的」な合理性は、決してシステム全体の「マクロ的」な合理性を保証しないのである。投資家の合理的な行動という「ミクロ的合理性」は、金融市場システムの「マクロ的合理性」を保証しない。』(pp.46)
このことは、個別最適化が全体最適にはならないことを示している。そしてまた、個別最適の結果は、予想外のところにまで大きな価値(利益)を生み出すと指摘する。その予想外の価値は、もちろん正の場合も、負の場合もある。
『経済活動は、本質的に、未来という未知の時間へ向かって行う投機だ。未知の将来がもたらす収益性を現時点である程度予測し、計算しながら経済的な意思決定を行う。しかし、現代の金融市場がかくも巨大化したのは、たえず、その計算値、予測値からはみだした利益が生みだされてきたからである。それは本質的にアンサーテンティによって支配されている、と見ておかなければならない。』(pp.47)
さらに、近代文明のひとつの特質を「技術主義」(テクノロジズム)としており、
『テクノロジズム(technologism)という、物事を技術的、合理的に処理できるという思想が、ただ産業技術といったレベルを超えて広く社会的事象までに及んできている。テクノロジーが、産業技術の世界に留まって、自動車や航空機をつくるとか、あるいは医療技術を開発するとか、そういう領域に収まっていればよいのだが、戦後のアメリカにおいては、それが社会や、時には人間の行動までを対象とするところまで進出してきた。』(PP.48)
また、「技術主義」(テクノロジズム)を別の意味で「専門主義」としており、次のように述べている。
『「専門家」は往々にして自分の考え方、見方が絶対的に正しいと思いがちである。この種の「専門家」の過剰な思い入れを「専門主義」と呼んでおきたいのだが、現代が「専門家」の時代であるということは、また同時に、その裏面で「専門主義」の弊害が生み出される時代でもある。そのことをわれわれは深く知っておく必要があろう。』(pp.51)
この言葉は、メタエンジニアリングで正の価値の追求と同時に、負の価値も考えなければならないという主張に共通する。専門家がImplementする負の価値は、一旦広がってしまうと容易に解消することはできない。
この著者は、2014年9月から、月刊誌「新潮45」に「反・幸福論」の題名で連載をしている。その原稿は、「さらば、資本主義」と題して、新潮社から2015.10.20に発行されたが、その後も連載は続いている。そこでは、脱工業社会における様々な価値観を述べているのだが、それはすでに半世紀も前に経済学者により述べられていることだ、としている。
2016年11月号では、「イノベーション神話」についての根本的な疑問を呈している。
『「イノベーションこそが経済成長を生み出す」という主張には、ひとつ重大な欠陥がある。』ということばだ。
『この命題は次のように書かれなければならないのだ。「イノベーションが新たな消費需要を喚起し、それが総需要を増大させれば経済成長が起きる」と。そして、イノベーションが消費需要をどの程度喚起するかは実際には全く不明なのだ。』
『理由は簡単である。なぜなら、イノベーションとは、シュンペーターのいう「創造的破壊」であり、それは、従来からの慣行や伝統や慣れ親しんだやり方を破壊する。慣習の破壊と新奇なモノへの偏向はリスクを高め、社会を不安定化する。当然、人々は現在の消費を控えて将来に備えようとするだろう。』(pp.327)
このことは、現在の日本に起こっている経済現象を、端的に表しているように思う。特に、「新奇なモノへの偏向」については、昨今のお笑い芸人の台頭など、あらゆるところに見ることができる。
「創造的破壊」については、例えば、スマホの急激な普及が挙げられる。スマホの広範囲な普及により、同じような機能を有する従来の製品が大打撃を受けている。読むための本や雑誌、メディアとしての新聞・テレビ、通信機としての固定電話・電話ボックス、画像保管としてのカメラ・ヴィデオ、パソコンなどである。これらすべての製品の市場が奪われたことと、スマホの市場の大きさを比較すると、おそらく前者の現象のほうが多いと思われる。そのことが、著者の言う「それが総需要を増大させれば」という仮定の条件になっている。
・第2の書
書籍名;「大転換」[2009] 著者;カール・ポラニー
発行所;東洋経済新報社 発行日;2009.7.2
初回作成年月日;H29.2.22 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
この書は、佐伯啓思著「大転換」NTT出版[2009.3.30] の元になった著書である。発行日は半年ほど後になっているが、これは1944年に書かれた世界的に有名な原書の新訳版だからである。
カール・ポラニー著の「大転換」は、巻末の彼の生涯によれば、1941年にドラッガーの紹介でロックフェラー財団から基金を得て書き始め、1943年に完成したとある。著書は、1944年に「The Great Transfer, The Political and Economic Origins of Our Time」がニューヨークで発売、翌年ロンドンで発売された。そして、2001年に全訳(新訳)が出版された。その際には、ノーベル経済学賞の受賞者の序文と紹介文が冒頭に加えられた。
ともに長文である、何故ならば彼らがこの著書の新たな価値に着目して、21世紀に予測される「大転換」にとって、重要な論理が展開されているとの認識と、難解だった内容をより簡明に全訳する必要性を強く感じたからだと、「訳者あとがき」にある。さらに、「訳注」を大幅に増強し、全21章すべてに、「訳者による概要」も追加した。
「序文」には、次のようにある。
『本書は、ヨーロッパ文明の工業化以前の世界から工業化の時代への大転換、およびそれにともなう思想、イデオロギー、社会・経済政策の変化を記述している。』
『ヨーロッパ文明が果たした転換は、今日、世界の発展途上諸国が直面している転換に類似しているので、往々にして、あたかもポラニーが直接現代の諸問題を論じているかのように感じられる。彼の議論と問題関心は、国際金融機関に反対して、1999年あるいは2000年にシアトルとプラハの街頭で暴動を起こしたデモ行進をした人々が提起した問題と共鳴し合っているのである。』(pp.ⅶ)
この文に続けて、その後設立されたIMF,世界銀行、国際連語を設立し運営に携わった人々に対して、『もし、そうした人々が本書の教訓を読み取り、それを真剣に受け止めていたならば、彼らの主張した諸政策は、どんなにか好ましいものになっていたことであろう。』と、序文を書いたノーベル経済学賞の受賞者はいっている。
最大の観点は、以下の序文にあるように思う。
『自己調整市場の欠陥は市場内部の作用においてのみならず、その作用の影響―たとえば、貧困者にとっての影響―においても極めて重大なため、政府の介入が不可欠となる。さらに、そうした影響の大きさを決定するに際しては、変化の速度がもっとも重要である。ポラニーの分析が明確にしているのは、トリクル・ダウン・エコノミック-貧困者を含むすべての人々が経済成長の利益にあずかることができるーという通説には、ほとんど歴史的裏付けがないということである。』(pp.ⅷ)
そして、21世紀になってからの状況に関しては、
『さらにポラニーは、自己調整的経済に特有な欠陥を強調し、それがようやく最近になって、また認識されてきている。その欠陥とは、経済と社会の関係にかかわるもので、経済体制や改革が人間一人ひとりの相互関係の在り方に、いかなる影響を及ぼすかということである。また、社会的関係の重要性がしだいに認識されるにつれて、使われる用語も変わってきた。例えば、今では、われわれは社会関係資本(social capital)について論じるようになっている。』(pp.ⅺ)
ここでは、「社会関係資本(social capital)」に訳注が付けられており、そこには次のようにある。
『一般に、社会の信頼関係、規範意識、ナットワークなど、人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を高めることができるような社会的特性を、社会関係資本と呼ぶ。』(pp.xⅺ)
なお、「変化の速度がもっとも重要」については、当時の状況から、急激な経済変動に直面した際には、政府の経済対策で、変化の速度を弱めることが極めて重要だとの理由による。
また、紹介文の冒頭には次の言葉がある。
『カール・ポラニーの著作は1940年代初頭に書かれたものであるが、その妥当性と重要性はますます大きくなっている。今日では、数か月もしくは数年を経て読み継がれる本はほとんどないが、「大転換」は半世紀以上経てもなお、多くの点で新鮮である。実際、本書は、21世紀初頭のグローバル社会が直面するディレンマを理解するになくてはならない本である。』
ポラニーの「大転換」は、2段階ある。第1の大転換は「市場自由主義の台頭」で、第2の大転換は、「ファッシズムの台頭」である。そして、19世紀の平和な世紀がおわり、世界大戦への道を歩んでしまったというわけである。
第1章の「平和の百年」では、
『19世紀文明は、西欧文明において前代未聞の事態、すなわち1815年から1914年までの100年間の平和という現象を生み出した。この奇跡的ともいえる成果は、バランス・オブ・パワーの作用の結果であり、・・・。』(pp.4)
そして、『19世紀文明は崩壊した。本書は、19世紀文明の崩壊という出来事の政治的、経済的起源、およびそれが到来を告げた大転換に関するものである。』(pp.5)
第3章の「居住か、進歩か」は、次の文で始まっている。
『18世紀における産業革命の核心は、生活用具のほとんど奇跡的ともいうべき進歩があった。しかしそれは同時に、一般民衆の生活の破局的な混乱を伴っていた。』(pp.59)
これは、最近の破壊的イノベーションに通じるものがある。
最後の、第21章の「複合社会における自由」では、自由の在り方について、19世紀の自己調整市場化による弊害を述べたうえで、決定的なことを述べている。
『規制と管理は、道徳的次元から自由の否定であると非難されることが予想される。規制、管理、計画化がつくりだす自由は真の自由ではなく、隷属の偽装であるという自由主義者の批判である。しかしこの批判は、市場的社会感が生み出した誤解に基づくものである。すなわち、あらゆる社会は人間の自由な意思と希望だけで形成できるという誤った認識である。自由主義者は、いかなる社会も権力と強制が無ければ存在できないという真理を理解していないのである。(中略)
豊かな自由を創造するという意志があれば、権力と計画化をその道具として使うことができるだろう。これが、複合社会における自由の意味であり、この自由を確立するという使命の重要性がわれわれに必要なあらゆる確信を与えるのである。』(pp.451)
つまり、複合社会における真の自由は、権力と計画化により保証されなければ実現できないということなのだと思う。ここに引用した文章からだけでも、彼の主張が20世紀後半から今日までの世界的な混乱の主因を表していることに思い当たる。
・第3の書
書籍名;「大転換」[2006] 著者;斎藤精一郎
発行所;PHP研究所 発行日;2006.12.4
初回作成年月日;H29.2.23 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
この著者の「大転換」は、発行年(2006)当時、日本がどうにかデフレからの脱却が見えそうになってきたことに関して、来るべき次の10年間に起こる「大転換」を予測してのことのようだ。
まえがきの冒頭には、このようにある。
『本書は、2007年(平成19年)以降、日本経済が約10年後の2015年頃を目処に繰り広げる大航海に当たっての「海図」を提示するものである。』(pp.1)
つまり、デフレ脱却の糸口は見えたが、前方には「人口減少と高齢化」、「グローバリゼーション」、「破壊的イノベーション」などの大波がある。それを、「ハイブリッドモデル」と称する手法で「新たな発展」を遂げることができるというストーリーであった。随分と楽観的に見える。
従って、詳細は省くことにするが、第3章の「世界成長の大波」の中の「コンドラチェフ仮説」から、少し引用する。経済の周期的な変動に関する4つの仮説は有名だが、これはその中で最長の波長をもった周期説であり、以前からメタエンジニアとして注目をしていたのだが、詳しい事情が分からなかったからだ。
『彼は過去100年間以上の欧米諸国の物価指数、利子、賃金、生産高などの時系列データを分析し、50~60年周期の景気変動が存在することを見出した。(中略)
彼は、この50~60年周期の長期波動の要因について技術の変化、戦争や革命、新たなフロンティアの発券、金産出量の変動の四つを挙げた。』(pp.138)
しかし、彼の仮説は、当時のロシア革命政府により容認できないと判定されて、政治犯としてシベリアに流刑されてしまった。
その後、シュンペーターにより、ほぼ同様の周期が、技術進歩の要因によるとして発表され、定説になった、とある。
この著者は、この説を20世紀後半から21世紀にかけて適用して、何らかの技術革新のサイクルを見出そうと、色々な現象を説明しているが、周期が合わなかった。しかし、このような周期は、一定になる理由はなく、また波動の大きさも一定になる理由はない。一般的に考えれば、周期が長くなれば、変動幅は増すであろう。技術革新による景気変動は、可変サイクルと見るべきではないだろうか。
このシリーズはメタエンジニアリングで「文化の文明化」を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
「大転換」と名付けられた著書が多数発刊された。調べてみると、同じ題名の本は、世田谷区図書館に14冊、杉並木図書館に10冊ある。「大転換」はやりだ。それらの中から、3冊を選んで纏めてみた。その場考的には、転換の周期とタイミンギが問題だ。
・第1の書
書籍名;「大転換」[2009]
著者;佐伯啓思 発行所;NTT出版 発行日;2009.3.30
初回作成年月日;H29.2.16 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
この書は、副題を「文明の破綻としての経済危機」として、新たな社会への転換の時期を迎えたと主張している。当時、氏は京都大学大学院人間・環境学研究科教授で社会経済学・経済思想史などを専門とする
「大転換」という言葉は、次の著書(第2の書として紹介)からの借り物であり、現代は当時よりもさらに大きな大転換の時を迎えているとの主張なのだ。
Wikipediaの「概要」には次のようにある。『ハンガリーからイギリス、アメリカへと渡ったポランニーが、研究成果として第2次世界大戦中に執筆した。人間の経済は社会関係の中に沈み込んでおり、市場経済は人類史において特別な制度であるとした。そして、市場経済の世界規模の拡大により社会は破局的混乱にさらされ、やがて市場経済自体のメカニズムが引き起こした緊張によって崩壊したと論じた。市場経済が世界規模で進む様子をウィリアム・ブレイクの言葉を借りて「悪魔のひき臼」と呼び、市場社会の崩壊と複合社会への揺り戻しを、書名にも用いられている「大転換」(Great Transformation) という言葉で表現した。』
マルクス主義とケインズ論が、20世紀の世界経済の状態の変動に、いかに機能したかを詳細に述べたのちに、経済の現状についてこのように述べている。
『反マルクス主義の拠点であり、自由な資本主義の牙城であるアメリカで、こともあろうに、マルクスの予言がかなりの程度、実現してしまったのである。あらゆるものを商品化して無政府的な運動を展開する純粋資本主義はきわめて不安定である、といったものがマルクスの予想であった。
しかも、この矛盾は、金融恐慌と、労働をめぐる階級闘争、すなわち所得格差において最も顕著にしめされる、というのがマルクス主義の考え方なのである。この矛盾が典型的に表出しているのが、もっとも高度に資本主義が展開されたアメリカのほかならない。たいへんな皮肉と言わざるを得ない。』(pp.23)
ここで、「無政府的」という言葉に、「グローバル」というルビを振っているのも、皮肉に見えてくる。階級闘争は、格差闘争として2016年のアメリカの大統領選挙に際して現実に現れた。
彼は、原因の一つを、「マクロとミクロの合理性」にあるとしている。
『個別主体の「ミクロ的」な合理性は、決してシステム全体の「マクロ的」な合理性を保証しないのである。投資家の合理的な行動という「ミクロ的合理性」は、金融市場システムの「マクロ的合理性」を保証しない。』(pp.46)
このことは、個別最適化が全体最適にはならないことを示している。そしてまた、個別最適の結果は、予想外のところにまで大きな価値(利益)を生み出すと指摘する。その予想外の価値は、もちろん正の場合も、負の場合もある。
『経済活動は、本質的に、未来という未知の時間へ向かって行う投機だ。未知の将来がもたらす収益性を現時点である程度予測し、計算しながら経済的な意思決定を行う。しかし、現代の金融市場がかくも巨大化したのは、たえず、その計算値、予測値からはみだした利益が生みだされてきたからである。それは本質的にアンサーテンティによって支配されている、と見ておかなければならない。』(pp.47)
さらに、近代文明のひとつの特質を「技術主義」(テクノロジズム)としており、
『テクノロジズム(technologism)という、物事を技術的、合理的に処理できるという思想が、ただ産業技術といったレベルを超えて広く社会的事象までに及んできている。テクノロジーが、産業技術の世界に留まって、自動車や航空機をつくるとか、あるいは医療技術を開発するとか、そういう領域に収まっていればよいのだが、戦後のアメリカにおいては、それが社会や、時には人間の行動までを対象とするところまで進出してきた。』(PP.48)
また、「技術主義」(テクノロジズム)を別の意味で「専門主義」としており、次のように述べている。
『「専門家」は往々にして自分の考え方、見方が絶対的に正しいと思いがちである。この種の「専門家」の過剰な思い入れを「専門主義」と呼んでおきたいのだが、現代が「専門家」の時代であるということは、また同時に、その裏面で「専門主義」の弊害が生み出される時代でもある。そのことをわれわれは深く知っておく必要があろう。』(pp.51)
この言葉は、メタエンジニアリングで正の価値の追求と同時に、負の価値も考えなければならないという主張に共通する。専門家がImplementする負の価値は、一旦広がってしまうと容易に解消することはできない。
この著者は、2014年9月から、月刊誌「新潮45」に「反・幸福論」の題名で連載をしている。その原稿は、「さらば、資本主義」と題して、新潮社から2015.10.20に発行されたが、その後も連載は続いている。そこでは、脱工業社会における様々な価値観を述べているのだが、それはすでに半世紀も前に経済学者により述べられていることだ、としている。
2016年11月号では、「イノベーション神話」についての根本的な疑問を呈している。
『「イノベーションこそが経済成長を生み出す」という主張には、ひとつ重大な欠陥がある。』ということばだ。
『この命題は次のように書かれなければならないのだ。「イノベーションが新たな消費需要を喚起し、それが総需要を増大させれば経済成長が起きる」と。そして、イノベーションが消費需要をどの程度喚起するかは実際には全く不明なのだ。』
『理由は簡単である。なぜなら、イノベーションとは、シュンペーターのいう「創造的破壊」であり、それは、従来からの慣行や伝統や慣れ親しんだやり方を破壊する。慣習の破壊と新奇なモノへの偏向はリスクを高め、社会を不安定化する。当然、人々は現在の消費を控えて将来に備えようとするだろう。』(pp.327)
このことは、現在の日本に起こっている経済現象を、端的に表しているように思う。特に、「新奇なモノへの偏向」については、昨今のお笑い芸人の台頭など、あらゆるところに見ることができる。
「創造的破壊」については、例えば、スマホの急激な普及が挙げられる。スマホの広範囲な普及により、同じような機能を有する従来の製品が大打撃を受けている。読むための本や雑誌、メディアとしての新聞・テレビ、通信機としての固定電話・電話ボックス、画像保管としてのカメラ・ヴィデオ、パソコンなどである。これらすべての製品の市場が奪われたことと、スマホの市場の大きさを比較すると、おそらく前者の現象のほうが多いと思われる。そのことが、著者の言う「それが総需要を増大させれば」という仮定の条件になっている。
・第2の書
書籍名;「大転換」[2009] 著者;カール・ポラニー
発行所;東洋経済新報社 発行日;2009.7.2
初回作成年月日;H29.2.22 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
この書は、佐伯啓思著「大転換」NTT出版[2009.3.30] の元になった著書である。発行日は半年ほど後になっているが、これは1944年に書かれた世界的に有名な原書の新訳版だからである。
カール・ポラニー著の「大転換」は、巻末の彼の生涯によれば、1941年にドラッガーの紹介でロックフェラー財団から基金を得て書き始め、1943年に完成したとある。著書は、1944年に「The Great Transfer, The Political and Economic Origins of Our Time」がニューヨークで発売、翌年ロンドンで発売された。そして、2001年に全訳(新訳)が出版された。その際には、ノーベル経済学賞の受賞者の序文と紹介文が冒頭に加えられた。
ともに長文である、何故ならば彼らがこの著書の新たな価値に着目して、21世紀に予測される「大転換」にとって、重要な論理が展開されているとの認識と、難解だった内容をより簡明に全訳する必要性を強く感じたからだと、「訳者あとがき」にある。さらに、「訳注」を大幅に増強し、全21章すべてに、「訳者による概要」も追加した。
「序文」には、次のようにある。
『本書は、ヨーロッパ文明の工業化以前の世界から工業化の時代への大転換、およびそれにともなう思想、イデオロギー、社会・経済政策の変化を記述している。』
『ヨーロッパ文明が果たした転換は、今日、世界の発展途上諸国が直面している転換に類似しているので、往々にして、あたかもポラニーが直接現代の諸問題を論じているかのように感じられる。彼の議論と問題関心は、国際金融機関に反対して、1999年あるいは2000年にシアトルとプラハの街頭で暴動を起こしたデモ行進をした人々が提起した問題と共鳴し合っているのである。』(pp.ⅶ)
この文に続けて、その後設立されたIMF,世界銀行、国際連語を設立し運営に携わった人々に対して、『もし、そうした人々が本書の教訓を読み取り、それを真剣に受け止めていたならば、彼らの主張した諸政策は、どんなにか好ましいものになっていたことであろう。』と、序文を書いたノーベル経済学賞の受賞者はいっている。
最大の観点は、以下の序文にあるように思う。
『自己調整市場の欠陥は市場内部の作用においてのみならず、その作用の影響―たとえば、貧困者にとっての影響―においても極めて重大なため、政府の介入が不可欠となる。さらに、そうした影響の大きさを決定するに際しては、変化の速度がもっとも重要である。ポラニーの分析が明確にしているのは、トリクル・ダウン・エコノミック-貧困者を含むすべての人々が経済成長の利益にあずかることができるーという通説には、ほとんど歴史的裏付けがないということである。』(pp.ⅷ)
そして、21世紀になってからの状況に関しては、
『さらにポラニーは、自己調整的経済に特有な欠陥を強調し、それがようやく最近になって、また認識されてきている。その欠陥とは、経済と社会の関係にかかわるもので、経済体制や改革が人間一人ひとりの相互関係の在り方に、いかなる影響を及ぼすかということである。また、社会的関係の重要性がしだいに認識されるにつれて、使われる用語も変わってきた。例えば、今では、われわれは社会関係資本(social capital)について論じるようになっている。』(pp.ⅺ)
ここでは、「社会関係資本(social capital)」に訳注が付けられており、そこには次のようにある。
『一般に、社会の信頼関係、規範意識、ナットワークなど、人々の協調行動を活発にすることによって社会の効率性を高めることができるような社会的特性を、社会関係資本と呼ぶ。』(pp.xⅺ)
なお、「変化の速度がもっとも重要」については、当時の状況から、急激な経済変動に直面した際には、政府の経済対策で、変化の速度を弱めることが極めて重要だとの理由による。
また、紹介文の冒頭には次の言葉がある。
『カール・ポラニーの著作は1940年代初頭に書かれたものであるが、その妥当性と重要性はますます大きくなっている。今日では、数か月もしくは数年を経て読み継がれる本はほとんどないが、「大転換」は半世紀以上経てもなお、多くの点で新鮮である。実際、本書は、21世紀初頭のグローバル社会が直面するディレンマを理解するになくてはならない本である。』
ポラニーの「大転換」は、2段階ある。第1の大転換は「市場自由主義の台頭」で、第2の大転換は、「ファッシズムの台頭」である。そして、19世紀の平和な世紀がおわり、世界大戦への道を歩んでしまったというわけである。
第1章の「平和の百年」では、
『19世紀文明は、西欧文明において前代未聞の事態、すなわち1815年から1914年までの100年間の平和という現象を生み出した。この奇跡的ともいえる成果は、バランス・オブ・パワーの作用の結果であり、・・・。』(pp.4)
そして、『19世紀文明は崩壊した。本書は、19世紀文明の崩壊という出来事の政治的、経済的起源、およびそれが到来を告げた大転換に関するものである。』(pp.5)
第3章の「居住か、進歩か」は、次の文で始まっている。
『18世紀における産業革命の核心は、生活用具のほとんど奇跡的ともいうべき進歩があった。しかしそれは同時に、一般民衆の生活の破局的な混乱を伴っていた。』(pp.59)
これは、最近の破壊的イノベーションに通じるものがある。
最後の、第21章の「複合社会における自由」では、自由の在り方について、19世紀の自己調整市場化による弊害を述べたうえで、決定的なことを述べている。
『規制と管理は、道徳的次元から自由の否定であると非難されることが予想される。規制、管理、計画化がつくりだす自由は真の自由ではなく、隷属の偽装であるという自由主義者の批判である。しかしこの批判は、市場的社会感が生み出した誤解に基づくものである。すなわち、あらゆる社会は人間の自由な意思と希望だけで形成できるという誤った認識である。自由主義者は、いかなる社会も権力と強制が無ければ存在できないという真理を理解していないのである。(中略)
豊かな自由を創造するという意志があれば、権力と計画化をその道具として使うことができるだろう。これが、複合社会における自由の意味であり、この自由を確立するという使命の重要性がわれわれに必要なあらゆる確信を与えるのである。』(pp.451)
つまり、複合社会における真の自由は、権力と計画化により保証されなければ実現できないということなのだと思う。ここに引用した文章からだけでも、彼の主張が20世紀後半から今日までの世界的な混乱の主因を表していることに思い当たる。
・第3の書
書籍名;「大転換」[2006] 著者;斎藤精一郎
発行所;PHP研究所 発行日;2006.12.4
初回作成年月日;H29.2.23 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Converging
この著者の「大転換」は、発行年(2006)当時、日本がどうにかデフレからの脱却が見えそうになってきたことに関して、来るべき次の10年間に起こる「大転換」を予測してのことのようだ。
まえがきの冒頭には、このようにある。
『本書は、2007年(平成19年)以降、日本経済が約10年後の2015年頃を目処に繰り広げる大航海に当たっての「海図」を提示するものである。』(pp.1)
つまり、デフレ脱却の糸口は見えたが、前方には「人口減少と高齢化」、「グローバリゼーション」、「破壊的イノベーション」などの大波がある。それを、「ハイブリッドモデル」と称する手法で「新たな発展」を遂げることができるというストーリーであった。随分と楽観的に見える。
従って、詳細は省くことにするが、第3章の「世界成長の大波」の中の「コンドラチェフ仮説」から、少し引用する。経済の周期的な変動に関する4つの仮説は有名だが、これはその中で最長の波長をもった周期説であり、以前からメタエンジニアとして注目をしていたのだが、詳しい事情が分からなかったからだ。
『彼は過去100年間以上の欧米諸国の物価指数、利子、賃金、生産高などの時系列データを分析し、50~60年周期の景気変動が存在することを見出した。(中略)
彼は、この50~60年周期の長期波動の要因について技術の変化、戦争や革命、新たなフロンティアの発券、金産出量の変動の四つを挙げた。』(pp.138)
しかし、彼の仮説は、当時のロシア革命政府により容認できないと判定されて、政治犯としてシベリアに流刑されてしまった。
その後、シュンペーターにより、ほぼ同様の周期が、技術進歩の要因によるとして発表され、定説になった、とある。
この著者は、この説を20世紀後半から21世紀にかけて適用して、何らかの技術革新のサイクルを見出そうと、色々な現象を説明しているが、周期が合わなかった。しかし、このような周期は、一定になる理由はなく、また波動の大きさも一定になる理由はない。一般的に考えれば、周期が長くなれば、変動幅は増すであろう。技術革新による景気変動は、可変サイクルと見るべきではないだろうか。
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