科学・メタエンジニアリング・工学(6)
第2章 現代科学が生まれたとき(その1)
1 哲学からの分離
人類が、将来にわたって科学を捨て去ることは無い。しかし、英国の産業革命に始まる現代の科学文明は、完全に唯物文明に変質してしまっている。当然のことながら、科学は物質だけのものではない。自然科学と人文科学とがあるように、物質と精神を同等に組み合わせた文明があるはずで、それが次の文明と考えられている。文明と文化の「文」は、宇宙の屋根(一)、その下に魂と物をX字に結ぶとも云われている。
・精神文明と物質文明、あるいは文化科学と自然科学
精神文明と物質文明を十字に結ぶと本当の科学文明ができあがる。かつて、産業革命が佳境を迎えて、哲学から自然科学が完全に分離した時を迎えて、ドイツの哲学者ハインリッヒ・リッケルト[1939]は、「文化科学と自然科学」の中で、このように科学を定義していた。
『勿論科学の「統一性」は決して科学の全部門の一様性であってはならぬ。何となれば、あたかも世界が多様であるように、科学も多様な目標を立て、それに到達すべき種々の方法を完成するときに初めて此の世界の各部分を全部抱合することができるからである。(中略)科学の最上の統一はむしろ、多くの多様な部門を結合してそれ自身に完全な「有機體」とする統一であろう。この方向に本著の趣旨もまた動いているのであって、この意図から本著は理解されなければならぬ。』(pp.10)
この文章は、哲学者の文章で多少分かりにくいのだが、考え方がメタエンジニアリングに通じる。つまり、哲学が多くの学問に分化して、大きく分けて自然科学と非自然科学に分かれたのちに、その包含する範囲と区別を明確にして、人間社会にとってそれぞれどのような結合により真に役立つものになるかといった問題を解こうとしている。彼は、非自然科学の代表を「歴史学」(つまり、人間の社会に現実に起こったこと)に置いている。しかし、各々の具体的な歴史は特殊であり、自然科学の目指す一般化とどのように結合するかを考えていたと思われる。
この本との出会いは,「科学の本100冊」村上陽一郎[2015]だった。図書館の新刊本の棚で見つけて、読み始めた。1番目はアインシュタインの「自伝ノート」、簡潔にまとめられていて、ついつい読んでしまう。村上氏自身の科学知識の源を辿ることにもなるので大いに勉強になる、お勧め本だった。「文化科学と自然科学」[1939]は、第86番目。題名もさることながら、『この本の中のいくつかの項目で、私は、現在のような意味での「科学(自然科学)は、十九世紀ヨーロッパに誕生した、という意味のことをのべています。』以下、興味深い文章が続くので、もとの本をどうしても読みたくなった。
1939年発行だが、岩波文庫の青帯本なので、何とかなるだろう。早速、世田谷区の図書館で検索したが、「なし」。次は、Book Offだが、これもNG。最後の手段はAmazonで、古本が8冊見つかった。値段が面白い。最安値は¥580で手ごろだが、次が¥3000付近に3冊、最後の2冊は何と¥18,900とある。貴重本は高値が多いが、これほどのバラツキは珍しい。早速に最安値を注文した。ちなみに、入手した第2刷の定価は、四十銭であった。勿論、横書きは右から左で旧漢字と旧仮名使いだった。引用は現用漢字と、一部を除き新仮名使いに改めた。
冒頭の第6,7版の序には次のようにある。この記述を通じて、彼の論理が当時の様々な学者によって異論が出され、そのたびに彼が内容を見直し、改訂版を発行し続けたことがわかる。
『本書のこの新版は、第3版(1915年)及び第4,5版(1921年)に対してと同様、ていねいに校閲せられ、若干の補遣が加えられている。(中略)それはこの、ロシア語、スペイン語及び日本語の翻訳さえ出ている小冊子に、どこまでも入門書としての特色を残さねばならなかった以上、是非もないことである。』(pp.8)
科学に対する現代の価値観との違いが鮮明で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。正に、メタエンジニアリングだと感じたからである。本文を引用する。
『私はむしろ、もし科学が文化生活の内実をあらゆる点で公平に取扱うと思うならば、文化生活は(その内容の特殊性のために)単に一般的にばかりではなく、個性化的にも(つまり歴史的にも)叙述されねばならぬといふ、その理由を示そうとするものである。そこからやがて個性化的手続きと価値関係的手続きとの必然的結合に対する洞察が生じてくる。』(pp.12)
彼は、「非自然科学」を「文化科学」と命名した。現在の人文・社会科学であろう。そして、『文化科学の基礎が価値であるといふことは、多くの人には多分、もう殆ど「自明」のことと思われている。』(pp.16)と断言をしている。つまり、当時の自然科学は、自然をありのままに見つめるものであり、まだ社会に対して直接に価値を生み出すものとは考えられていなかった。
彼は、「文化科学と自然科学の課題」として、次のように述べている。
『非自然科学的な経験的諸学科の共通関心・課題及び方法を規定して、自然研究者のそれらに対して境界区画をなし得る概念を展開するという目標である。私は文化科学という語が最もよくかかる概念の特色を示すと思う。そこで我々は、文化科学とはどういうものであり、自然研究とどういう関係に立つものであるかという問いを提出しようと思う。』(pp.23)
また、第2章の「歴史的状況」では、次のように述べている。
『自然科学的時代(私は勿論17世紀のことを言っているのである)の哲学は自然科学とは到底切り離せない。この哲学―デカルトなりライプニッツなりを思い起こしていただきたいーは自然科学的方法の解明に従事して、これまた成功を収めている。そして結局18世紀の末にはもう近世最大の思想家(カントを指す)が、方法論にとって決定的な自然の概念を確立し、それを物事の「不変的諸法則にしたがって規定された限りに於ける」現存在とするとともに、自然科学という最も普遍的な概念を確立して、多分それを、見極める限りの将来に対して最後的なものにしたのである。』(pp.29)
そのような思想は、第4章の「自然と文化」に、次の文章で より明確に説明されている。
『自由に大地から生じるのは自然産物であり、人間が耕作播種したときに田畑の産するのは文化産物である。これに従えば、自然はひとりでに発生したもの「生まれたもの」及びおのれ自らの「成長」に任せられたものの総体である。文化は、価値を認められたもろもろの目的に従って行動する人間によって直接生産されたもの、或いは(もしそれが既に存在しているならば)少なくともそれに付着せる価値のゆえにわざわざ擁護されたものとして、自然に対立する。』(pp.48)であって、当時の価値観からは、自然科学自体の価値は、非自然科学のなかでのみ生まれると考えられている。さらに、「自然に対立する」は、デカルトやカントなどの西欧的な自然観を強く感じる。
そのことは、第6章の次の言葉で明白になってくる。
『自然科学の諸成果を現実の上に適用するということ、換言すれば、その諸成果の助けを借りて我々の環境に通じ、それを計算するどころか、技術によって支配することまでできるといふことは不思議がる必要はない。』(pp.86)
つまり、「技術」もその特殊性において、文化の一部なのだろう。こうなると、現代の工学はおおいに困ったことになるかもしれない。
また、第11章の「中間領域」では、たとえば生物の進化の科学的な検証について、自然科学なのか、歴史学なのかといった問いに対して、中間領域の存在を認めている。
『自然科学における歴史的要素に関しては、近代では主として生物学、殊に謂わゆる系統発生的生物学が問題になる。それは周知のごとく、地球上に棲む諸生物の一回的な発生過程をその特殊性に於いて叙述せんと試みるので、そのために実際もう度々歴史的科学と称せられて来たのである。』(pp.173)
そうすると、工学も、中間領域と云えなくもない。
ここで、「技術によって支配することまでできる」と宣言していることは、西欧型文明の不幸の始まりとも思える。
(以下は次号にて)
第2章 現代科学が生まれたとき(その1)
1 哲学からの分離
人類が、将来にわたって科学を捨て去ることは無い。しかし、英国の産業革命に始まる現代の科学文明は、完全に唯物文明に変質してしまっている。当然のことながら、科学は物質だけのものではない。自然科学と人文科学とがあるように、物質と精神を同等に組み合わせた文明があるはずで、それが次の文明と考えられている。文明と文化の「文」は、宇宙の屋根(一)、その下に魂と物をX字に結ぶとも云われている。
・精神文明と物質文明、あるいは文化科学と自然科学
精神文明と物質文明を十字に結ぶと本当の科学文明ができあがる。かつて、産業革命が佳境を迎えて、哲学から自然科学が完全に分離した時を迎えて、ドイツの哲学者ハインリッヒ・リッケルト[1939]は、「文化科学と自然科学」の中で、このように科学を定義していた。
『勿論科学の「統一性」は決して科学の全部門の一様性であってはならぬ。何となれば、あたかも世界が多様であるように、科学も多様な目標を立て、それに到達すべき種々の方法を完成するときに初めて此の世界の各部分を全部抱合することができるからである。(中略)科学の最上の統一はむしろ、多くの多様な部門を結合してそれ自身に完全な「有機體」とする統一であろう。この方向に本著の趣旨もまた動いているのであって、この意図から本著は理解されなければならぬ。』(pp.10)
この文章は、哲学者の文章で多少分かりにくいのだが、考え方がメタエンジニアリングに通じる。つまり、哲学が多くの学問に分化して、大きく分けて自然科学と非自然科学に分かれたのちに、その包含する範囲と区別を明確にして、人間社会にとってそれぞれどのような結合により真に役立つものになるかといった問題を解こうとしている。彼は、非自然科学の代表を「歴史学」(つまり、人間の社会に現実に起こったこと)に置いている。しかし、各々の具体的な歴史は特殊であり、自然科学の目指す一般化とどのように結合するかを考えていたと思われる。
この本との出会いは,「科学の本100冊」村上陽一郎[2015]だった。図書館の新刊本の棚で見つけて、読み始めた。1番目はアインシュタインの「自伝ノート」、簡潔にまとめられていて、ついつい読んでしまう。村上氏自身の科学知識の源を辿ることにもなるので大いに勉強になる、お勧め本だった。「文化科学と自然科学」[1939]は、第86番目。題名もさることながら、『この本の中のいくつかの項目で、私は、現在のような意味での「科学(自然科学)は、十九世紀ヨーロッパに誕生した、という意味のことをのべています。』以下、興味深い文章が続くので、もとの本をどうしても読みたくなった。
1939年発行だが、岩波文庫の青帯本なので、何とかなるだろう。早速、世田谷区の図書館で検索したが、「なし」。次は、Book Offだが、これもNG。最後の手段はAmazonで、古本が8冊見つかった。値段が面白い。最安値は¥580で手ごろだが、次が¥3000付近に3冊、最後の2冊は何と¥18,900とある。貴重本は高値が多いが、これほどのバラツキは珍しい。早速に最安値を注文した。ちなみに、入手した第2刷の定価は、四十銭であった。勿論、横書きは右から左で旧漢字と旧仮名使いだった。引用は現用漢字と、一部を除き新仮名使いに改めた。
冒頭の第6,7版の序には次のようにある。この記述を通じて、彼の論理が当時の様々な学者によって異論が出され、そのたびに彼が内容を見直し、改訂版を発行し続けたことがわかる。
『本書のこの新版は、第3版(1915年)及び第4,5版(1921年)に対してと同様、ていねいに校閲せられ、若干の補遣が加えられている。(中略)それはこの、ロシア語、スペイン語及び日本語の翻訳さえ出ている小冊子に、どこまでも入門書としての特色を残さねばならなかった以上、是非もないことである。』(pp.8)
科学に対する現代の価値観との違いが鮮明で、私は当時の文化科学と自然科学の価値観を支持する立場にある。正に、メタエンジニアリングだと感じたからである。本文を引用する。
『私はむしろ、もし科学が文化生活の内実をあらゆる点で公平に取扱うと思うならば、文化生活は(その内容の特殊性のために)単に一般的にばかりではなく、個性化的にも(つまり歴史的にも)叙述されねばならぬといふ、その理由を示そうとするものである。そこからやがて個性化的手続きと価値関係的手続きとの必然的結合に対する洞察が生じてくる。』(pp.12)
彼は、「非自然科学」を「文化科学」と命名した。現在の人文・社会科学であろう。そして、『文化科学の基礎が価値であるといふことは、多くの人には多分、もう殆ど「自明」のことと思われている。』(pp.16)と断言をしている。つまり、当時の自然科学は、自然をありのままに見つめるものであり、まだ社会に対して直接に価値を生み出すものとは考えられていなかった。
彼は、「文化科学と自然科学の課題」として、次のように述べている。
『非自然科学的な経験的諸学科の共通関心・課題及び方法を規定して、自然研究者のそれらに対して境界区画をなし得る概念を展開するという目標である。私は文化科学という語が最もよくかかる概念の特色を示すと思う。そこで我々は、文化科学とはどういうものであり、自然研究とどういう関係に立つものであるかという問いを提出しようと思う。』(pp.23)
また、第2章の「歴史的状況」では、次のように述べている。
『自然科学的時代(私は勿論17世紀のことを言っているのである)の哲学は自然科学とは到底切り離せない。この哲学―デカルトなりライプニッツなりを思い起こしていただきたいーは自然科学的方法の解明に従事して、これまた成功を収めている。そして結局18世紀の末にはもう近世最大の思想家(カントを指す)が、方法論にとって決定的な自然の概念を確立し、それを物事の「不変的諸法則にしたがって規定された限りに於ける」現存在とするとともに、自然科学という最も普遍的な概念を確立して、多分それを、見極める限りの将来に対して最後的なものにしたのである。』(pp.29)
そのような思想は、第4章の「自然と文化」に、次の文章で より明確に説明されている。
『自由に大地から生じるのは自然産物であり、人間が耕作播種したときに田畑の産するのは文化産物である。これに従えば、自然はひとりでに発生したもの「生まれたもの」及びおのれ自らの「成長」に任せられたものの総体である。文化は、価値を認められたもろもろの目的に従って行動する人間によって直接生産されたもの、或いは(もしそれが既に存在しているならば)少なくともそれに付着せる価値のゆえにわざわざ擁護されたものとして、自然に対立する。』(pp.48)であって、当時の価値観からは、自然科学自体の価値は、非自然科学のなかでのみ生まれると考えられている。さらに、「自然に対立する」は、デカルトやカントなどの西欧的な自然観を強く感じる。
そのことは、第6章の次の言葉で明白になってくる。
『自然科学の諸成果を現実の上に適用するということ、換言すれば、その諸成果の助けを借りて我々の環境に通じ、それを計算するどころか、技術によって支配することまでできるといふことは不思議がる必要はない。』(pp.86)
つまり、「技術」もその特殊性において、文化の一部なのだろう。こうなると、現代の工学はおおいに困ったことになるかもしれない。
また、第11章の「中間領域」では、たとえば生物の進化の科学的な検証について、自然科学なのか、歴史学なのかといった問いに対して、中間領域の存在を認めている。
『自然科学における歴史的要素に関しては、近代では主として生物学、殊に謂わゆる系統発生的生物学が問題になる。それは周知のごとく、地球上に棲む諸生物の一回的な発生過程をその特殊性に於いて叙述せんと試みるので、そのために実際もう度々歴史的科学と称せられて来たのである。』(pp.173)
そうすると、工学も、中間領域と云えなくもない。
ここで、「技術によって支配することまでできる」と宣言していることは、西欧型文明の不幸の始まりとも思える。
(以下は次号にて)