茨城から八ヶ岳南麓へどどんぱっ

今までのタイトルがブログの内容に合わなくなってきたので、模様替え。

長寿という事に思う事。

2013-10-28 23:11:58 | Weblog
仕事で高齢の方と話しをする事がよくある。

先日も、たぶん80才は悠に超えているだろう、おじいさんと電話で会話した。

こっちの説明をほとんど理解してもらえず。
どんなに何度もゆっくりと言葉を変え説明してみても。

更に、おじいさんの伝えたい事は意味不明で何をしたいのか、
伝えたいのか理解に苦しむ。

う~ん、これでは詐欺の被害にも遭ってしまうだろうな、と感じてしまった私。

こういう状態で長生きしている老人っていうのは、どうなんだろう?
長生き万歳と言えるんだろうか?
人としてちゃんと物事の判断も意思疎通も図れない状態で生きていくっていうのは
そういう長寿に果たして価値はあるのだろうか?

そんな事をずっと悶々と考えて続けていたところ、
先日、日経ビジネスに正に私の感じていた疑問に少し答えるてくれる記事が掲載されていた。

日本と違って、外国では「寝たきり老人」という人がほとんどいないらしい。
え、何故?
と、驚きながら読み進んだ私。

例えばガンになって口から物を摂取できなくなったら、それは当たり前。
という共通認識が全ての人のあるからだそうだ。

どういう事かというと、
もう病が最後まで進み天寿を全うする時期にきた、
という最期がきているという事を、そのまま受け入れる社会になっている。

日本のように管から栄養を与えたり、胃瘻を作って、生き永らえさせる延命は行っていない。

それを聞いて思ったのは、
「それでは平均寿命が日本より極端に短いのでは?」
という素朴な疑問。

ところがそうでもないらしい。
日本と2~3年ぐらいしか変わらないらしい。

という事は延命治療しないで寿命がほとんど変わらないとすると、
諸外国の高齢者は、普通の生活を送っている中で最期を迎えている老人が多いという事になる。

それは正に私がそうであるべき!と思い描く最期の迎え方。

これから確実にやってくる高齢化社会。
少数の若者が支える日本経済。
年金だけでなく、膨れ上がる莫大な医療費、
そこまで社会保障で支えるとすると、、、
どれだけ日本の経済の重しになってしまうのであろうと危惧している私。

回復の見込みがない高齢者の延命治療って、私は無意味であると感じる。
そんな事を今のうちに日本全体で真剣に考えるべきではないだろうか?

たぶん、こんな事をいうと「何て残酷な、、」と延命措置をNOという人間は
冷酷な人間扱いされるんだろうと、容易に推測されるが、
そんな感傷論を言っているうちに身動き出来ない状態に陥ってしまっている日本が目に浮かぶ。

だって外国では延命治療は選択肢にないのがあたり前なんだから、
違う角度から見つめなおしてみる必要性を感じる。

そもそも、日本の高齢者がここまでぐたぐたになった責任の一環は本人にもあると思う。

高齢者になると階段の上り下りが大変だからと早くに階段の上り下りのない建物に住んでしまうと
益々足腰が弱るのに拍車がかかると思うが。

歩けなくなる人の全てとは言わないが多くの人に筋力をおとろえさせない努力が足りないと思う。

私は今から老後の自分がぐたぐたにならないよう、
食生活、欠かさぬ運動、
と今、出来る限りの努力を払っている。
それが自分の人生に対する責任だと思うから。

それでも、ぐたぐたにならない保障なぞないが、
それでもやるだけの事をやってもダメなら仕方なし。

余談ながら私の好きなBSのtv番組の「イタリアの小さな村の物語」
というイタリアに生活するドキュメンタリーで、100才をこえるおじいさんが、
少し足は悪いものの、
きちんと喋れて、普通にごはん食べて、
家族と一緒に送る日々をとりあげていたが、
100才過ぎていても、こんな普通なんだ!?
と驚いたが、これが外国の老人の姿なんだろうか?
と、(日本だって無理でないと)希望が見えた気がした。

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