古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

裏山のシイタケのホダ木置き場を改良しました。

2011年04月18日 03時12分08秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 毎年10本ずつホダ木を追加しているのでいま60本ほどあります。ところが置き場をおおっていた真竹を全部伐採してしまったので日光にさらされるようになりました。(松、山桜など元の樹木は竹薮に飲み込まれて全部枯れて倒れてしまいました)そこで切った竹を使ってシイタケ置き場のおおいを改善しました。竹を針金でくくって枠をつくり、ヨシズをかぶせて日陰になるようにしたのです。
 写真で朝日があたっているのが右、左は低い裏山になっており、西日はそんなにあたりません。冬は日が低くなるのですが手前の南側には竹薮を残しているのでその陰になります。この置き場を年中木陰になるようにしたい。木の茂る裏山のてっぺんにはちゃんとした木陰があるのですが、後期高齢者近くなるとシイタケをとるために登るのはしんどい。
 
 簡単な仕事ですが、おっかなびっくりで踏み台や脚立に乗り竹につかまってなんとか仕上げました。作業をしながら「そうなんだなあ。『老いる』というのはこういうことなんだなあ」と手足の衰えをつくづく実感していました。「もし脚立が倒れて80センチのところから落ちてもひらりと身をかわすでなく、ボテッと転がって骨を折ると入院して筋肉がさらに衰え……」と思いながら作業しました。
 ぼくはそんなふうに老いを実感するのは大事なことだと思います。
 神戸に住んでいた頃、ある年輩の人にこんな話を聞きました。「いままで元気で医者にかかったことがなかったのにえらい目にあいました」バス停に向かって歩いていたらバスが来た。これに乗ろうと走ったら胸が痛くなって倒れた。それで心臓を手術したというのです。15分待てば次のバスが来るのに走ってしまう。いままで自分では当たり前にやってきたことです。
 それがあるときから思うようにできなくなる。向うから自動車が来る。道を横断する。渡りきれると思ったのに。小さな溝だからひょいとまたげると思ったのに。少し重いけどこれくらいなら運べると思ったのに。そんなふうに限界が日に日に後退するのを知るには、畑仕事や裏山の仕事はちょうどいい試練になります。
 それにしてもいまから木を植えて、このシイタケのホダ木置き場が木陰になるのは何年先か。それともこちらが寝込み、竹薮が勢いを盛り返して置き場を飲み込むか。
 この勝負、結果は見えてるのに見たくない。まだ若いねー。
 
 
コメント
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