古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

道子さんも運転免許証を更新しました。

2019年12月13日 21時16分38秒 | 古希からの田舎暮らし
 75歳以上=後期高齢者の運転免許証更新は、いまは三段階です。
① 自動車学校で認知症テストを受ける。 …… 公安委員会で採点して通知が来る。
② 自動車学校で高齢者講習を受ける。 
③ 明石の更新センター(または警察署)で免許証を更新してもらう。

 昨日、自動車学校で高齢者講習を受けた道子さんは、今日明石の更新センターで免許証を更新してもらいました。ぼくが車を運転して明石まで。更新がすんだら「魚の棚」に寄るつもりでしたが、なんんとなくドライブしたくなって、野々池のほうまで車を走らせました。
 もう30年近く前のことですが、ぼくは野々池中学校に勤めていました。44歳から54歳まで10年間です。勝手知った道を少し走ってみましたが、「なつかしい!」とか「感慨深い」思いは浮かばず、サクサクした気持ちでした。当時は自分なりに中学校教育に打ち込んだはずなのに、過ぎてしまえばこんなものかな。
 
 そうそう。写真の35ミリフィルムとAPSフィルムはプラスチックごみに出して、捨ててしまいました。思い出の写真とか「貴重な家族の記録」があったかもしれないけど、そんなものを思い出したり、プリントしたり、整理したりするのが、面倒になりました。
 認知症になったときに「思い出の写真を見て、むかしの記憶をよみがえらせる」のがいいかな、と思ったけど、そんなことしなくていい。「あんなもの、なかった」と思えばいい。
 捨ててしまったら、スッキリした気持ちになりました。35ミリフィルムを写真にする機械も不要だったな。もう役に立たないけど「断捨離の学習代」と思うことにします。
 どうせ人生はムダなことだらけですし。
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松本清張『半生の記』を注文しました。

2019年12月13日 03時37分45秒 | 古希からの田舎暮らし
 松本清張の『半生の記』は、図書館で借りて何度も読んだ本です。大型活字本でも読みました。河出書房版でも読みました。読むたびに、心にひびくものがありました。
 いまも図書館で借りて、読み返しています。終活にむけて最後まで残しておきたい本も整理・処分しているところですが、『半生の記』は手元に置いて読み返したくなりました。
 82歳になり、終活中なのに、今ごろになって本を買うとは「どういう了見だ?」。
 自分に問いかけながら注文しました。

 本文を引用してみます。 松本清張 『半生の記』 1966年初版/1992年新装版 より
   
 砂を噛むような気持とか、灰色の境遇だとか、使い馴らされた形容詞はあるが、このような自分を、そんな言葉では言い表せない。絶えずいらいらしながら、それでいて、この泥砂の中で窒息したい絶望的な爽快さ、そんな身を虐むような気持が、絶えず私にあった。
 家の近くに廃止になった炭鉱があった。あまり高くはないがボタ山がある。私は一番上の女の子を連れて、夜、その山の頂上に立ち、星座の名前を教えた。山の端から昇ってくるサソリ座は赤い眼を輝かせ、図で見るよりは意外に大きな姿で昇ってくる。天頂には三角形に白鳥座と弓座とがある。私は子供に「あれがデネブだ」「あっちがアルタイルだ」と指さして教えたが、そんなことでもするより仕方なく、私の心には星は一つも見えなかった。

  
 文盲の母と道楽者の父の、親の喧嘩の絶えない、極貧家庭の一人っ子で、尋常小学校高等科を卒業すると給仕に雇われて一家の生活を支え、絶望しながら生きた時代を、松本清張は自分で書いています。抑制のきいた文から、絶望/わびしさ/が伝わります。
 若い頃、松本清張の小説はよく読みました。松本清張/遠藤周作/の文章は、眼に触れているだけで快い。まっすぐ入ってきます。そこに描かれている〈わびしさ〉も入ってきます。
 もし彼の人生が別の曲がり方をしていたら、「松本清張の作品を読むしあわせ」がなかったかもしれない。と思いながら、ときどき、読み返してみたい。
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