夏に一カ月放置しておくと、畑/山/花壇/庭/裏山/はどこも草が伸び放題。草抜き、草刈りは生やさしくありません。老人の仕事は、ぼくの草刈りも道子さんの草抜きも連続2時間はしんどい。無理はしたくない。
少しずつやっています。
明日は畑の石垣下を刈ります。いま胡麻を干しています。パラパラとシートの上に落ちています。道子さんは、時間があると「金胡麻のゴミ取り」に精を出します。細いピンセットで白いお盆に広げた胡麻のなかからゴミを拾います。彼女の胡麻への執念。日本人はよく胡麻をつかうのに、そして作ろうと思えばいくらでも作れるのに、全部輸入に頼っています。ここに移住してきたときは、隣の村にも東条町のとどろき温泉の裏にも、胡麻をつくっている人がありました。散歩で見かけてうれしかった。いまはゼロです。
半藤一利の『ノモンハンの夏』を読み返しています。読みとばせる本ではありませんし、また読みとばしたくない。数十ページ読むと、漢字ナンクロ、テレビ、なんとなくブラブラ、などで時間をあけます。「軍隊の上層部は、兵士ひとりひとりや庶民ひとりひとりのことなんか心配しなかった。あの思い上がりを告発しないまま歴史は流れている」。そのことへの「怒り」をかかえたまま庶民は逝くしかなかったのか。
船戸与一の『満州国演義』を読んでも、阿部牧郎の『神の国に殉ず』(東条英機と米内光政)を読んでも、伊藤佳一の兵士目線の小説(彼の中国戦線での自分の体験です)を読んでも、気持ちが波立ちます。「兵士」や「庶民」という人間を、自分と同じ一人の命ある人間として考えなかった。
空襲で落とされた焼夷弾はバケツの水なんかで消せない。逃げるしかない。なのに「逃げないで消火しろ。逃げたら処罰するぞ」といって多くの庶民を焼死させた。言い出したヤツは敗戦後告発されたか。処罰されたか。
あの軍の上層部の連中を、敗戦後徹底的に反省させねばならなかった。「一億総ざんげ」でごまかしてはいけなかった。ドイツのナチス告発の文学作品を読むにつけ、日本の「まー、まー、まー」と口をぬぐった時流がいまだに口惜しい。
少しずつやっています。
明日は畑の石垣下を刈ります。いま胡麻を干しています。パラパラとシートの上に落ちています。道子さんは、時間があると「金胡麻のゴミ取り」に精を出します。細いピンセットで白いお盆に広げた胡麻のなかからゴミを拾います。彼女の胡麻への執念。日本人はよく胡麻をつかうのに、そして作ろうと思えばいくらでも作れるのに、全部輸入に頼っています。ここに移住してきたときは、隣の村にも東条町のとどろき温泉の裏にも、胡麻をつくっている人がありました。散歩で見かけてうれしかった。いまはゼロです。
半藤一利の『ノモンハンの夏』を読み返しています。読みとばせる本ではありませんし、また読みとばしたくない。数十ページ読むと、漢字ナンクロ、テレビ、なんとなくブラブラ、などで時間をあけます。「軍隊の上層部は、兵士ひとりひとりや庶民ひとりひとりのことなんか心配しなかった。あの思い上がりを告発しないまま歴史は流れている」。そのことへの「怒り」をかかえたまま庶民は逝くしかなかったのか。
船戸与一の『満州国演義』を読んでも、阿部牧郎の『神の国に殉ず』(東条英機と米内光政)を読んでも、伊藤佳一の兵士目線の小説(彼の中国戦線での自分の体験です)を読んでも、気持ちが波立ちます。「兵士」や「庶民」という人間を、自分と同じ一人の命ある人間として考えなかった。
空襲で落とされた焼夷弾はバケツの水なんかで消せない。逃げるしかない。なのに「逃げないで消火しろ。逃げたら処罰するぞ」といって多くの庶民を焼死させた。言い出したヤツは敗戦後告発されたか。処罰されたか。
あの軍の上層部の連中を、敗戦後徹底的に反省させねばならなかった。「一億総ざんげ」でごまかしてはいけなかった。ドイツのナチス告発の文学作品を読むにつけ、日本の「まー、まー、まー」と口をぬぐった時流がいまだに口惜しい。