清水寺へと向かう茶碗坂。
ここも若者の観光客が、意外にも多かった。
「今時の若者は旅をしない」とか、「ネットでの仮想体験で済ませている」などとメディアでは言われているけど、それがすべてではないのであります。
報道を鵜呑みにしてはいけないという見本であります。
両側にぎっしりと店が並ぶ坂を登り切る。すると突然、目の前が開けた。
山の上に別世界が広がっているのだ。
山門の鮮やかな朱色。高度感。先を急ぐ群衆。ここは明らかに非日常の世界だ。
観光地ではあるけど、本来は修行の場
開設は奈良時代の末、778年だ
眼下に京都の街が広がっている
本堂の舞台には傾斜があり、ちょいとコワい
寺院の中というのは、静かで薄暗い。
これは世界中どこへ行っても、ほとんどそうだ。
中には
「ウチはめっちゃ明るくやってます!」
なぞと宣言し、皓々と照明をつけ賑やかにしている宗派もあるかもしれないが、それは取りあえず無視しておく。
そうしないと話しが進まない。
こういう暗くて静かなところに入ると、人の心は沈静する。
目先の予定ばかり考えている日常から離れ、時間のとらまえ方が大きくなる。
10年、20年という単位で物事を考えるようになる。
天空に浮かぶ異空間
宗派は北法相宗であります
僕は今年に入ってから、ある仏教系の大学の仕事を手伝うようになった。
学報のライティングである。それにともない、その学校の歴史を読んだり、宗派について学んだりしている。
まったく畑違いの分野かと思いきや、そうではない。僕は大学で印度哲学を学んだので、そのときの経験が活かされてるのだ。
「よくもまあ、卒業させてくれたもんだ」と思うような成績だったが、そんな僕でもちゃんとお役に立てるのだ。
しかし、卒業してしばらくは
「どうしてあんな学問を専攻したんだろ?」
と、自分でも不思議に思うことが多かった。
周囲の先輩や取引先にも
「変わってるねー。就職には何の得にもなんなかったでしょ」
なぞと言われたものだ。
しかし、ですな。
どんな経験でも、自分の血となり肉となっているんですなァ。最近、つくづくそう思うんであります。
陽の暮れ始めた頃、山を下りる
京都はどの道を歩いても風情がある
すり減った石段。この先に何があるかな?
「清水寺って、東海道のすぐ脇にあったんですね」
「やっ、本当だ。昔から賑わっていたんだろうなァ」
そんな会話をしつつ、バスで京都駅へ。この旅も終焉である。
駅構内で夕食を摂っているあいだに、陽は暮れた。
帰りのチケットを確認し、土産を買っているあいだに、非日常から日常へとゆるやかに意識が移行していく。
そんな寂しさがあっても、やっぱり旅の魅力にはあらがえないんであります。日本の中だけでも、まだまだ知らないところがたくさんある。
こうして各地に思い出と知人・友人を作っていくこと。これは間違いなく、生きていく上で力になりますなァ。
おわり
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