終わってみれば「39年ぶりの全区間1位での総合優勝」という、青山学院大の圧倒的な強さだけが印象に残った今年の箱根。
同校の選手層の厚さからしても、しばらくは「青学時代」が続くんだろう。
はぁぁぁ~(ため息)
あ、いや。
青山学院大学の全選手のみなさん。
本当におめでとうございます&おつかれさまでした。
さて。
私が一方的に肩入れしていた東京国際大学は最終的に17位だった。
同校が10位以内に食い込んでシード権獲得でもすれば、まさに「風が強く吹いている」を地で行く新星校登場、ということで大いに来年の箱根が盛り上がっただろうに。残念だ。
今日(の復路)は東京国際大学の順位(と走り)を追うことに終始していた私である。
同校の復路の各区間走者(敬称略)と順位、10位のチームとのタイム差は以下のとおり。
6区 熊谷光(3年生)
小田原中継所での順位:12位(10位の中央学院大学とのタイム差は1分44秒)
7区 山中章弘(2年生)
平塚中継所での順位:14位(10位の東海大学とのタイム差は4分43秒)
8区 鈴木大貴(3年生)
戸塚中継所での順位:17位(10位の帝京大学とのタイム差は7分47秒)
9区 石井辰樹(3年生)
鶴見中継所での順位:17位(10位の帝京大学とのタイム差は8分36秒)
10区 小針旭人(4年生)
大手町ゴールでの順位:17位(10位の帝京大学とのタイム差は8分39秒)
残念ながらシード権が得られる10位(以内)の大学との差を順位・タイムともにズルズルと広げられ続けた展開。
でも。
1区を走った関竜太選手と10区の小針旭人選手以外は全員2年生と3年生である。
つまり、彼らは今年の箱根での経験と屈辱をひっさげて来年再び予選会に臨んでくる、ということだ。
東京国際大学の選手諸君。
来年は是非、「予選会突破~箱根で総合10位以内=シード権獲得」という夢をオジサンに見せてくれい。
いや、いっそ来年は10月の予選会から応援に行っちゃおっかな、と思っている今日この頃だ。
(私の一方的な)期待を背負って走った東京国際大学は総合17位で終わったが、大手町のゴールに駆け込んできた小針選手がゴール後に笑顔で走ってきたコース(と観衆)に深々と一礼していた姿は実に好印象だった。
彼の清々(すがすが)しい態度に惚れて、ますます東京国際大学のファンになった私である。
ちなみに、日本体育大学と上武大学の選手たちも各区間でゴールした後に必ずコースに向かって一礼していた(ように思う)。
あ、あと、青山学院大の7区を走った小椋裕介選手も。
ゴール後に苦しさで倒れこんでいる選手が多い中で、武士道を体現するかのような彼らの態度は私の目にはとても崇高に映った。
20㎞以上を全力で走り抜いてきて苦しくないわけがない。
ゴールで迎えてくれた仲間に抱きかかえられてすぐにでも倒れこみたいだろうに、それでも走ってきたコースを振り返って深々と頭を下げる。
彼らが頭を下げているのは、自分を事故なくゴールまで導いてくれたコースそのものに対してであり、先導してくれた白バイ隊員に対してであり、声援を送ってくれた沿道の観衆に対してであり、給水をサポートしてくれたチームメイトに対してであり、交通整理その他のあらゆる諸事を引き受けてくれたボランティアに対してであろう。
駅伝はチーム競技とはいえ、つまるところ一人一人の選手が孤独に走るだけのスポーツだ。
しかし、自分が孤独に走りきれたのは自分以外のたくさんの人たちが自分を支え続けてくれたからだ。
ゴールした後、倒れこんで休息を得る前に、どんなに苦しくても、それらの人たちに礼をもって感謝することを知っている大学生がいる。
順位とかタイムとか勝つとか負けるとかいう以前の、人間として最も大切なことを知っている彼らを私は誇りに思う。
そういう「勝負以前の人間として大切なこと」を彼らに伝え、教えている大学の先輩や監督を私は尊敬する。
ゴールした後、自らが走ってきたコースに一礼した瞬間、彼らはきっと、順位やタイムよりももっと大切な「人としての何か」を手にするのだと思う。
その一方で。
チームメイトから給水サポートを受けた後で、そのチームメイトが並走してくれているにもかかわらず、水の入っていたペットボトルを沿道に投げ捨てて行く選手もいる。
誰とは言わないが、総合10位以内に入ってシード権を獲得した大学の選手である。
彼らに悪意や他意はないと思う。
思うけど。
水を手渡してくれた仲間に一言礼を言って、
いや、口もきけないほどに苦しいなら無言でもいい。
何故、ペットボトルを彼の手に返すことができない?
貴方が投げ捨てて行ったペットボトルを、貴方の仲間がどういう気持ちで拾い上げているか、貴方は想像したことがあるか?
代表選手に選ばれるということは、仲間に対する感謝の気持ちも人としての礼節も捨て去っていい、ということと同義か?
仲間が手渡してくれた給水のペットボトルを、その仲間の目の前で道に投げ捨てる選手が、ゴールした後でコースに向かって一礼することはない。
その心根の貧しさは、選手の肉親の死や不幸までも電波に乗せてレースを盛り上げようとするテレビ局の姑息な品性に近似している。
「順位」と「タイム」と「記録」と「お涙ちょうだい的浪花節エピソード」以外の箱根駅伝を見ている人間は、私以外にも大勢いる(と信じたい)。
来年の箱根駅伝を走るすべての選手諸君が、成績優秀なアスリートである前に品性高潔な人間として、正月の箱根路を最後まで無事に走り抜くことを願う。