親父は、摂子の面倒を見ながらでは働きに行くこともできぬ。
年老いた祖父母では障害のある摂子の世話はとてもできない。
親父は八方手を尽くして、知的障害児を全寮制で預かってくれる施設を見つけて、そこに摂子を入れた。たぶん、摂子が5歳か6歳の頃だ。
そして摂子は今でもその施設にいる。
親父は死ぬまで摂子を可愛がっていたから、断腸の思いだったろう。
小学4年生だった私でさえ、突然、摂子と引き離された辛さで押し潰されそうだった。
当時の私の記憶。
私を連れて家を出たお袋が誰かと電話で話している(以下、名古屋弁)。
「あんな家にはおれんわ。利文だけ連れて出てきたがね。クソ親父がどうなろうと、もう、知ったことじゃないわ。とにかく金を作らなあかんもんねぇ。『いらん物はコメ兵に売ろう!』とかテレビでやっとるで、少しでも金になるかと思って着物とか指輪とかコメ兵に持ってったけど、どれもこれも『買えません』って言うんだわ。『あんたら、テレビでいらん物はコメ兵に売ろう!とか言っとるけど何にも買ってくれやせんがね。ほんならあたし(の身体)でも買ってくれるんか、って言ってやったわ。はっはっはっ」
下卑た冗談を言いながら明るく笑うお袋の横で、私は折り紙を切り抜いて『せっちゃん』という文字を作って遊んでいた。わざとお袋の目に入るように、だ。
摂子を捨ててきたお袋への、小学4年生の私にできる精いっぱいの抗議だった。
お袋は私が作った切り文字をチラッと見たが、何も言わなかった。
知的障害があって、ちゃんと話もできなくて、てんかんの発作もあって、突然ひっくり返ったりして。
恥ずかしいから学校の友達は家に呼べなかった。
なんで自分の妹はこんなんなんだろう、と毎日、思っていた。
やり場のない怒りが爆発して癇癪を起し、おもちゃをひっくり返して泣き喚いたこともある。
お袋は悲しそうな顔をして、摂子と二人で、私が散乱させたおもちゃを一つずつおもちゃ箱にしまっていた。
摂子を捨てたお袋は許せなかったけれど、私もたいしてお袋と違いはない。
摂子が大好きで大好きで、摂子が可愛いくて仕方なくて、摂子を妹として愛していたけれど、わが身が置かれた理不尽な不幸を受け入れられず、お袋に、親父に、そして摂子に、噛みついていた。
私は、くそ野郎だ。
お袋が捨てた直後の摂子の写真である。
今見ても、胸が、潰れそうになる。
上段の摂子と一緒に写っている老婆は私の父方の祖母。
下段で摂子と一緒に写っているのは親父だ。
摂子は何も悪くない。
実の親に捨てられ、知的障害を負い、私のお袋に捨てられ、家も、親父のことも、みんなのことが大好きだったのに施設に放り込まれなければならないような罪を、摂子は何一つ、犯していない。
神様。あんたは残酷だ。