つれづれなるままに弁護士(ネクスト法律事務所)

それは、普段なかなか聞けない、弁護士の本音の独り言

武蔵野市

2020-06-22 22:06:00 | 晴れた日は仕事を休んで
残すところあと2カ所。
第52回目の今回は武蔵野市だゾウ。

行ってきたのは井の頭自然文化園だゾウ。
ここだゾウ↓


ほんの数日前まで新型コロナ感染防止対策の一環で臨時休園中でござった。
非常事態宣言も解除されて、東京アラートも解除されて、ようやく再開である。
助かった。
東京日帰りツーリングも三鷹市を最後に無期休載になるかと思った。太宰治の悪口書いた祟りかしらん。
ちなみに、井の頭自然文化園は前回の三鷹市編で行った「風の散歩道」のすぐ脇にある。

なんでここに来たかったかというと、ここにははな子のいた象舎が保存されているからだ。

これ、はな子↓


はな子は1949年にタイから上野動物園に贈られて来たアジア象だ。
1947年生まれだから、わずか2歳のときに日タイ友好名目で母親から引き離されて日本にやって来た。

「はな子」という名は、戦争中に軍の命令で餓死させられた上野動物園の象「花子」の名前を受け継いだものだ。
毒入りの餌を与えられても頑として食べようとせず、餓死する直前まで飼育員を信じて餌をもらおうと覚えた芸を文字通り必死に見せていた象の話を聞いたことがあろう。あの「花子」である。

はな子は1950年から日本全国を回った後、武蔵野市と三鷹市の熱心な誘致活動を受けて井の頭自然文化園で暮らすことになった。
しかし、その後、2度にわたる死亡事故(1度目は1956年に夜中に象舎に忍び込んだ馬鹿を、2度目は1960年に何故か飼育員を、いずれも踏み殺した)を起こし、「殺人象」の烙印を押されて鎖に繋がれたり、来園者から石を投げつけられたりした。

漫画家の大島弓子さんが「サバの秋の夜長」という作品の中で触れたとおり、はな子はストレスで立ったままでしか眠れない時があった。
そして、はな子は死ぬまでひとりぼっちだった。
いつも来園者に背を向けて運動場の壁を見ていた(はな子の運動場の床が水はけのために来園者側に向かって緩やかなスロープとなっていたためであり精神的なものではない、という説明もあるが、だったら、そんな床を作った設計上のミスということになろう。)↓



2016年5月26日死去。69歳。

死後、せめて骨だけ、あるいは遺灰だけでも故郷のタイに帰国させてあげてほしい、という運動が起こったが、遺体は研究名目で国立科学博物館に寄贈され、標本にされてしまった。

死の前後、三鷹市や武蔵野市、動物愛護協会、東京消防庁などから表彰状や感謝状が贈られたり↓



亡くなった後、多くのファンから花束が手向けられたり↓



吉祥寺駅前に銅像が建てられたりしたけど↓


はな子はタイでお母さんと一緒にいたかったんじゃないかな。

どんなに大切にされても、どんなに親切にされても、表彰状や感謝状やたくさんの花束を貰って駅前に銅像を建ててもらっても、狭い象舎で見世物にされて一生を送るより広いタイの草原で風に吹かれていたかったんじゃないかな。

67年間、はな子を見世物にし続けて、象舎に閉じ込め続けたことの贖罪(しょくざい)のように、人は今もはな子に想いを馳せて、花を手向け続けている。

はな子を異国の象舎に閉じ込めて一生を終えさせ、死してなお、骨すら故国に返してやろうとしない僕らは今、新型コロナに怯えながら(たかだか数十日)自宅に閉じ込められる生活の不運を嘆き続けている。

動物園というシステムを否定する気はない。
絶滅しかけている動物を保護し、飼育し、その生態を調べ、子どもたちが安全に、そして簡単に、本物の動物を見て、彼らと触れ合える機会を手にすることはとても意義のあることだ。

わかってる。
わかってはいるけど。

はな子は幸せだったのかな。
はな子を、というより一頭のアジア象に勝手に「はな子」という名前をつけて、生涯、いや、死後もなお暗い部屋に閉じ込めて、見世物にしたり標本にしたりする権利が僕らにはあるのかな。

「ステイホームです」「頑張って今は外出を控えましょう」という声を聞くたびに、天邪鬼(あまのじゃく)な私は、
「はな子は67年間外出禁止で、骨にされても故郷に帰してもらえないんだぞ」
と叫び返したくなるのだ。

次回で東京日帰りツーリングは最終回。
武蔵村山市です。











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