あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

酉の市怨みなき世を過ごしけり  あきオジ

2010-11-07 20:02:34 | 日記
湯島聖堂の屋根瓦です。
なぜか、湯島聖堂からお茶の水駅が見えます。
それもまたいいですね。
スカイツリーと同じようにお茶の水駅周辺から意外な中央線などの路線が発見できるのです。
「楽しみはこれからです。」

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人をそしる心をすて豆の皮むく 放哉

はかなさは灯明の油が煮える  放哉

すでにあかつき仏前に米こぼれたり  放哉

(これらの句が私は好きです。好きだということは「このみに合う。それだけのことで俳句としてどうかという評価などありません。ただ、心情的な言葉を並べ、そこに象徴と言うか、日常的なものをおいて、新しい世界を描いているのがいいなと思うのです。どれも実に現実を凝視した言葉になっています。抽象的な言葉だけでなく、現実を写生するだけでもない。そんなところが面白いし、なんといっても「どきっ」とする撮り合わせがいいですね。)

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金木犀匂い残して散りにけり   あきオジ

2010-11-07 17:19:45 | 日記
浅草の墨田川広場で
シャボン玉のイベントがありました。
人が多いところが好きな私としてはチャンスです。
子供がシャボン玉で遊んでいる姿を撮りました。
こんなとき、いいカメラがほしい
レンズがあったら、もっと面白い写真が撮れたのに・・・
などと思ったりもしました。
無理な話です。

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何の木の花とは知らず匂ひかな  芭蕉

(伊勢神宮に参詣したときの句だというのです。そうなると評論家は西行を引っ張り出してくるのですね。なるほど、評論家等の発想はそんなところからくるのか、などと素人オヤジは妙なところで納得するのです。

何ごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる  西行(そうでないという説もあるそうです。)


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秋深しそれほどでもない寒さかな  あきオジ

2010-11-07 16:56:55 | 日記
聖橋の下のトンネルです。
「橋の下のトンネル」?ですね。
説明が難しい構造になっているのです。
写真を見て確かめてください。

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初しぐれ猿も小蓑をほしげ也  芭蕉

(この句を読んで思ったのです。この句を一茶の句だとしたら、芭蕉崇拝の評論家はどのように説明するだろうか。芭蕉はそれほど奥深く、俳人として完成度の高いのだろうか。そんなどうでもいいようなことを考えるのです。そのようなことを思いめぐらせなければ芭蕉は退屈です。)

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日曜日は「鬼平犯科帳」そして「剣客商売」が一日の締めです。
まあ、飽きずに同じドラマを見ているかと思います。
この「鬼平犯科帳」は、ゲストスターと脇役の密偵の人物が面白くて見ているようなものです。
与力とか同心は鬼平の引き立て役で窮屈な役割です。
その点、自由に演じられる密偵はなかなかの訳です。
その役を演じる俳優がなかなかで面白いですね。

「剣客商売」は、藤田まことが演じる「秋山小平衛」という隠居した剣豪の人物の魅力ですね。
「こういう老人に私はなりたい」そんな人物ですね。
現役から引退し郊外で悠々自適
若い女房を娶り
できのよい息子がいて
ドラマでは孫に恵まれている。
なんというかっこよさか
そんなことを思うのです。

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スカイツリー大股歩きで迫りくる  あきオジ

2010-11-07 07:14:45 | 日記
せっかく発見した?撮影スポットも最近は出かけると
必ず数人のカメラマンが高級機で構えています。
カメラだけでも負けているのに
三脚を準備し、交換レンズをいれたケースを担いでいる姿を見ると
悔しいけれど「ごめんなさい」ですね。
また、新聞などでいろいろな撮影スポットを紹介していますね。
しょうがないか。
新しいものを見つけましょう。

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生残る我にかかるや草の露  一茶

父ありて明ぼの見たし青田原  一茶

父親の死を迎えた後の句です。日記にも綿々と悲しみを書いていますね。でも、ある解説書には、義母との遺産相続問題がある現実を思い浮かべて作戦を考えていたのだという説もあります。それはどうか分かりませんが、一茶には悪戦苦闘しながら、夢叶わない江戸の生活、信州へ戻っての父親との生活、そして遺産相続問題での義母との争いがいつもつきまとっていたことだけは見当がつきます。ご苦労様です。ということなのでしょう。農業を継ぐわけでもなく、田畑の管理を弟にまかせっきりで、父親の面倒を見なかった母親と金の争いに執着する。それが一茶であり、貧しさの生んだ卑屈さなのでしょうね。そのような一面をみないと、一茶の句は「なにこれ?」で終わってしまいそうです。)

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神代植物公園の薔薇も終り
菊の写真は撮ったし
昭和記念公園のコスモスは見ごろを過ぎて
後は紅葉ですね。

長生きしないと楽しみが広がりませんね。

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菊花展老婆も似合うひざしかな  あきオジ

2010-11-07 06:38:45 | 日記
野心も秋へマッチの焔指に迫り  兜太

雷雲車窓の吾を明るくしこの午後果る  兜太

(相変わらず、句は意味不明ですが、言葉の選び方スケールの大きさ、ダイナミックな表現、なんとなく見当がついてきて、違和感が消えてきました。ちょっと面白くなってきました。)

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「金子兜太」(春陽堂)

金子兜太の句集なのですが、読み始めの一冊目ですね。まあ、ぼちぼちということで読むことにしました。でもどうでもよいことですが、後付けの解説に「わが師、わが結社」というタイトルの文章がありました。安西篤という弟子の方が書いているのですが、立派な賛辞ですが、自由律の俳句の世界も体質は同じなのだという思いがしました。師をたたえる賛辞は結社の新年会だけにしてもらいたいですね。きっと弟子たちの句も師と同じ傾向で表現形式も同じようなもので合評会などで高め合っているのでしょうね。それはそれでよろしいでし、それが俳句が生き延びてきた大きなことなのでしょう。でも、それだから、行きずまってしまいますね。はやり、いまでも、料亭で作られる世界なのですね。

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シャボン玉何事もなき朝になり  あきオジ

2010-11-07 06:29:19 | 日記
シャボン玉で遊ぶ子供

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芭蕉野分して盥に雨を聴く夜かな  芭蕉

(芭蕉の句は俳句のセオリーからすれば申し分なく、品格もあるし、表現も見事なのでしょうが、最近、「つまらなく」なってきました。そつがないバランスのいい話を聴いているような退屈さがきたのです。多分、浪が寄せては返すようなものなのでしょうが、そんな時期になっているような気がするのです。どうしてそれを感じるかと言えば、「芭蕉句集」(岩波古典文学全集)「芭蕉俳句集」で探していても、見つからないというか、魅力ある言葉に出会わない。そんな感じなのですね。おもしろいなと思うのは、だいたいが有名な句なのですね。それ以外に魅力を感じないのです。でも、そのうち、新しい見かたで読むようになるのでしょう。)