交通と延喜式内神社
私は國學院大學で神道を専攻した。
卒業論文は伊香郡の延喜式内神社に
ついてを作成し三橋健先生に提出し
「優」と言う評価を頂いた記憶があ
る。やはり恩師の御指導が良かった
のであろう。大学を卒業して幾星霜
おりにつけ故郷滋賀県伊香郡の延喜
式内神社の事は未だ気になるものだ。
岩本先生は式内社と古道の因果関係
をおりにふれ話されていた記憶が残
っている。土岐先生は海の道の海上
の交通と式内社の関係を語られてた
記憶が残っている。延喜式神名帳の
近江国浅井郡矢合神社とは虎姫町と
伊香郡 (西浅井町)の二カ所あり何れ
が神名帳にされた神社かは確た
る証明は出来ない。今回は長浜市
西浅井町の矢合神社へと田畑氏と
行く事にした。下図の左国道303号
の左に相当する。当神社には数回
参拝しているので今回は田畑さん
と共に昔から交通の要衝と伝わる
岩熊坂「やのくま坂」の切通しを
目指し一路剣難の山坂を登山する事
にした。
田畑氏と登山すると氏はここは福井県
なのですかと質問されたのに対して私は
ここは古くから近江国浅井郡ですと私は
答えた。下界には琵琶湖北湖の入江塩津
港が見てここが湖北と湖西を結ぶ水陸の
要衝である事も改めて認識出来た。
ここでなつかしい※万葉歌を思い出す。
※高島の安曇の港を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ
矢合神社は
滋賀県長浜市(旧西浅井町)に存在する。
琵琶湖の北を東西に走る、303号線岩熊
トンネルの東出口近く。国道8号線の塩津
交差点からは西へ1.5Kmほどの岩熊に
鎮座。岩熊は「やのくま」に鎮座しいる。
社伝によるれば、醍醐天皇の御代には、
すでに存在していた古社であるとする。
もとは山腹に鎮座していたが、
後に現在地である山麓へ遷座した。
「矢合」の名称について
昔、浅井姫命と気吹雄命が争った時、
気吹雄命が浅井岡を襲い、
浅井姫命は当地まで退き、
防矢を射たという。
防矢を射たという。
◆岩熊坂の土塁
岩熊坂近くに至ると中世の土塁
が構えられた痕跡が残っていた。
▼土塁の上の田畑氏、杣道の轍の跡。
私は岩熊坂の切通しが見学したかった
湖北から湖西へと通じる交通の要衝。
「岩熊坂」を是非見ておく事が長年の
宿願とでもあった。見えて来た見えて
きた鋭く切り込んだ近世に開削された
印象的な切通しである。▼田畑氏の顔
がいつになく凛々しい五月人形の様だ。
膝小僧には剣難の道を超えて来た泥が
着いてその剣難さが解ると言うものだ。
ここでもなつかしい※万葉歌を思い出す。
※塩津山(しほつやま)打ち越えゆけば我が乗れる馬そつまづく家恋ふらしも
「岩熊坂」を懸命に降る田畑氏。
矢合神社
御祭神は猿田彦神
明治43年、八幡神社を合祀し、
現在は、猿田彦神と応神天皇を祀る。
御祭神は猿田彦神
明治43年、八幡神社を合祀し、
現在は、猿田彦神と応神天皇を祀る。
境内の神馬像に三巴の紋が付いている。
◆故郷長浜から米原方面へと帰り夕焼
けを見て今日の難路の厳しさから解放
されて一息を田畑氏と夕陽を見てつく。