城郭 長谷川博美 基本記録

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藤吉郎秀吉と山の民の民俗学的視点

2020-05-05 20:08:56 | 民俗学
藤吉郎秀吉と山の民の民俗学的視点
豊臣秀吉と山の民についての関係を模索する民俗学的
考察が見られるが山仕事に従事する民の関係性に言及
したものが見られる。私の言う山の民とは林業に携わ
る樵「きこり」杣人「そまびと」や水田耕作で生計を
立てていない林間の山菜採取に従事する人々の意味で
使いたい。天正11年1583年『称名寺文書』3月13日付
の文書では石田三成の文書は近江柳ケ瀬の様子の斥候
つまり物見に関してし記している。称名寺自体は天正
10年の本能寺の変に際して広瀬兵庫介と称名寺性慶が
長浜城にいた秀吉の妻と彼の母親を保護して深山幽谷
の山道を通り当時の浅井郡甲津原を経由させ美濃坂内
村に落として、秀吉の家族の安全を計っている。さて
天正11年柴田勝家の柳ケ瀬の内中尾山の本陣を視認す
るに利便な山岳は新谷山標高662mが柳ケ瀬集落の東に
位置し内中尾山本陣の様子や動向を遂次監視する場合
には利便の土地である。私は2020年4月新谷山へと歩み
を進めた。現地近くの南約200mには異様な長い土塁が
高さ約180㎝長さ約24.3mに渡り残されていた。軍事的
な土塁ではなく林業に使われた杣道と考えられるのだが?
果して是だけの土木工事が林業の為だけに作られ必要か?
まるで兵員を隠す為に作られた土塁の様に感じられる
この写真の地面のフラットさ!広い平面は伏兵陣地と
私には感じられた。土塁の中に隠れて柳ケ瀬方面へと
北国街道へと銃撃が可能な土手畝や縄手でもあるのだ。
秀吉と言う人は杣人が作る杣土手に見せかけて合戦に
なっだ場合に偽装して備えていた可能性がないだろう
か?秀吉は『長尾新五郎氏文書』の3月27日付け文書
で石川数政に柴田勝家が柳ケ瀬背後の高山に陣取り防御
工事を施して堅固に構えているので急速に是を攻撃する
事ができないから秀吉も是に対して砦を構え長浜に帰っ
た事を記している。また秀吉は毛利輝元に対して4月12
日付けで柳ケ瀬において輝元の書簡を拝読した事を書い
ている。また新谷山標高662m交点には柳ケ瀬を眼下に
おさめる場所に見張番所らしき数段の段築や奇妙な塹壕
が見られる事に驚く。

さらに秀吉は『『長尾新五郎氏文書』『賤ケ岳合戦記』
で3月18日余呉文室山に登って行市山連峰の佐久間軍の
陣営視察を行っている。ところがである文室山の南には
また新谷山と類似した山尾根に杣土手つまり土塁が現実
に残されている事にある。この場所の図面も作成したが
土塁は杣土塁や村境ではなく、砦の様式に作られている。
賤ケ岳合戦の現場では余呉山中各所に塹壕陣地が出現する。
討論者
そんな賤ケ岳合戦の遺構が余呉地域に残されいる
事などはどう考えても納得できません。賤ケ岳が
メインで中心ですよ!歴史を曲解しないで下さい。
長谷川
それは貴方の固定概念です。合戦の勝利者秀吉が
戦功のあった槍9人衆の内7人として自分の勝利
は賤ケ岳七本槍にあると、当時国内に宣言宣伝し
た戦功キャツチ、コピーつまりは宣伝文句こそが
「賤ケ岳七本槍」となり現代社会に定着してしま
ったからです。東京デズニーランドは千葉県浦安
に存在しても東京デズニーランドと言うのと同じ
意味です。賤ケ岳合戦は元来『余呉の庄の戦い』
であり砦の9割が余呉町の中に数多く今でも眠って
ます。砦は当時の合戦のインフラ「歴史的施設」
是を活かして如何に過疎地に光を立てるが課題!
兎に角、本物の古戦場の現場がリアルに残ってる
タイムスリップ感覚にも似た凄い世界が残る事!

長谷川
追記①
※秀吉の樹木伐採伝説や伝説
賤ケ合戦の前年天正10年には既に柴田勝家が
開削して越前と近江の交通利便の確保した新
北国街道の栃ノ木峠に秀吉は樵「きこり」を
派遣して大木を街道に倒させた伝承が残って
おります。この柴田領ともみ言える越前近江
の国境の峠道に巧妙に杣人に大木を伐採させ
ればその大木倒れた位置により勝家の交通を
阻害しかつもし国境で戦闘が発生した場合に
はその横たわった大木の向きや倒れた位置に
よって羽柴秀吉方の防塁の代用となりえる物
といえます。『太閤記』などに見える墨俣砦
一夜城の普請などにも上流で木材を伐採して
長良川に筏として偽装する秀吉一流の築城法
つまりライン流れ作業プレハブ工法の画期を
見る事が出来る。天正18年の小田原城包囲戦
においても石垣山城を完成させ城の前面の木
を極めて急速に伐採する事により石垣山一夜
城が出現したように演出する。大木伐採策戦
が脳裏に浮かびます。織田信長が芹川の河口
である松原内湖で大船を建造した時も信長は
芹川に多賀方面の木々を伐採させ松原に流し
ておりますが真に奇妙な事に芹川上流の来栖
に太閤出世太鼓おどりなる民俗が残っていた
事を聞きます。何故藤吉郎秀吉伝承が来栖に
残ったのか大きな疑問にもなります。文献
資料として参考にできない『武功夜話』でも
秀吉の来栖陣なる文言が見えます。秀吉と山
に暮す生活民「山人」の関係の残影は秀吉の
作った大坂城や伏見城や肥前名護屋城などに
も山里郭が存在し文禄慶長期には太閤秀吉は
諸大名に「物売りの物真似」をさせる野趣あ
ふれるる遊びをしますが、これなども秀吉と
山の民や職人や物売りとの関係の足跡を物語
る一辺かもしれません。また天正11年の秀吉
の発給した文書には北国道を封鎖する総構を
東野山と堂木山の間につくらせますか゛この
防御ラインにはたとへ草刈人夫一名たりとも
通すなと厳命してます。秀吉の言う草刈人夫
とは?非常に意味が深く草刈とは山草刈りの
事や草の者つまり草刈に変装した情報偵察員
を徹底的に取り締まれと言っている訳です。
秀吉は本能寺でも山崎でも賤ケ岳合戦に於い
ても徹底した現場視察を重視する武将です。
長谷川
追記②秀吉の主、織田信長の忍者草の者の記録。


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余呉天神山城と長浜衆と秀吉

2020-05-05 02:06:15 | 民俗学
城郭ビイスタ論 上文字キリック

余呉天神山城と長浜衆と秀吉
はじめに
天正11年1583年賤ケ岳合戦の初期段階3月において
羽柴秀吉方は木ノ本の田上山城と余呉片岡天神山城
の二塁を築城して柴田勝家の近江南進を阻止する策
を秀吉は立てている。しかる後賤ケ岳の古を押え
て天正期から存在した古城を再築城して柴田勝家方
の内中尾山、行市山、賤ケ岳、山本山、という一連
の山岳ルートを賤ケ岳で阻止せんと配置している事
は明らかである。賤ケ岳合戦最大の切通は飯之浦坂
である事また賤ケ岳城にも堀切を掘削しており堀切
は合戦の趨勢を握るほどの重要な防御施設でもある。
 しかし現実の賤ケ岳合戦の主戦場は余呉町一体
であり勝者秀吉の小豆坂7本槍の後継的合戦として
後に賤ケ岳7本槍という自己宣伝PR戦略に利用さ
ており本来羽柴秀吉は同年3月期に於いては本陣を
田上山に於いて合戦の主戦場となる場所は片岡天神
山城を元来は想定していた。

長浜市余呉町地図「略図」片岡天神山とは全長寺の南。
長浜市余呉町片岡天神山の俯瞰「近江国伊香郡余呉庄片岡郷」
下図は秀吉が当時長浜城主の柴田伊賀守勝豊家中に築城させた
長浜町民を動員して築城された賤ケ岳合戦初期段階の羽柴方の
最前線に相当する優れた城郭遺跡である。天正11年段階秀吉は
柴田勝豊を下して療養させ配下の家老格が天神山に赴任してい
る。その縄張りたるや、当合戦の陣城の中でも白眉たる名城と
言って過言ではない。砦図の左は横山城観音丸に類似した縄張
技巧を持ち右砦は内枡形、外桝形、半円形鉄砲陣地、そして図
は切れているが更にその右に三重の塹壕を巡らせた鉄砲陣地が
北国道を南進して来る柴田勢に対し強烈な銃撃戦を展開する為に
用意された特殊な陣地で存在野仏も多い。秀吉の初期余呉庄合戦
計画としては敵柴田勢が天神山2塁及び中世城郭城山「じよやま
」を包囲体制に入った時をねらい柴田方より軍勢の多さで優る
秀吉と丹羽長秀が天神山の東西から伏兵を増援して柴田を包囲
挟撃する策戦と思われる。城郭構造を知る人ならこの城は出色
の城と言える。

従って柴田方から見てこの天神山の2塁は非常に落城させ
やすい包囲して先ず緒戦をかざるに容易い、おびき寄せる
為のこの合戦の初期段階における囮の城「おとりの城」だ。
勿論天神山城の立地は脆弱に見えるが城塞としては優れた物。
桶狭間合戦では鷲津砦、丸根砦の2塁が今川方を引き付ける
囮の城、2塁であった訳である。賤ケ岳合戦後半で後に秀吉は
余呉湖畔に大岩山、岩崎山の2塁を臨時築城させているが
城郭の基礎とも言える堀切構させていない事にある。ワザ
と構えさせず。この2塁に佐久間勢を引き付けて羽柴と丹羽
が賤ケ岳に合流して2対1の軍勢の理論で勝利を収めると言う
非常に簡単な敵を「釣る策戦」なのである。柴田勝家歴戦の
武人で是を充分に知っている。しかし佐久間玄蕃盛政は北国
の合戦では一歩も引かない猪突猛進型の性格の武将だ藤吉郎
秀吉とは?人間心理を読み解く看破する心理学の名手で危機
管理も、本能寺、山崎合戦、清須会議何れも落ち度のない人。
この脆弱とみなされる片岡天神山砦が初期賤ケ岳合戦の
決戦の地となる予定であったと見て良いだろう!囮の城だ!
反論者
長谷川先生それなら天神山城に秀吉方から援軍を送り
込む為の伏兵用の砦が存在したのですか?!証拠は?
長谷川
そうもうすで30年も40年も前に発見してます。しかし
是の文献や城址を発表すると林道工事進まない公共の
発展第一とする私は歴史や遺跡には忠実ですが社会の
発展阻害する事を罪だと考えている人。また滋賀では
遺跡を保護する意識は極めて希薄である事も事実です。
長谷川
この天神山城に増援部隊を送り込む為の砦は街道から
見えない場所に隠すように巧妙に作られていおります。
炊飯の火や煙さえ見えない山影に伏兵陣を構え天神山
に増援する施設や陣小屋は撤廃、されているのです。
文献でも柴田伊賀の小屋や堀久太郎の小屋を前線から
壊して撤廃せよと初期余呉庄の合戦の様子が生々しく
秀吉の書状には書かれています。
反論者
ではその隠し砦の場所は?
長谷川
それはこの腰郭だったり
この砦だったり

この遺構だったり
この土橋や堀切だったり
この未知の砦だったり。
対談者
私達が学んだ歴史って何なのですか?
真剣に学んだ事
教えられた事や
記憶した諸々の事
が絶対正しいと
思った教科書が
孫の教科を見たら全く違ってます!

長谷川
三国志で諸葛孔明の陣城、五丈原が出て来る。
でも観光客とは本当の五丈原の遺構に見向き
もしない観光看板石碑に夢中です。それって
偽物フエイクと言っても聞く耳を持たない。

賤ケ岳合戦佐久間玄蕃盛政の行市山城の土塁
を見る人など1人もいません!みんな三角点
広場の登山標識を我先にと写真撮影するだけ
佐久間玄蕃の城塁を誰も見る気も意識も無い!
そもそもザもウオール壁を見て敵を遮断する
堀や土塁に観光の人は全く興味無いと言う事。
▼貴方は文字だけを見て聞き歴史と思ってる。
▲この高い土塁を見る気など更々なくて合戦や歴史を語る!
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