藤吉郎秀吉と山の民の民俗学的視点
豊臣秀吉と山の民についての関係を模索する民俗学的
考察が見られるが山仕事に従事する民の関係性に言及
したものが見られる。私の言う山の民とは林業に携わ
る樵「きこり」杣人「そまびと」や水田耕作で生計を
立てていない林間の山菜採取に従事する人々の意味で
使いたい。天正11年1583年『称名寺文書』3月13日付
の文書では石田三成の文書は近江柳ケ瀬の様子の斥候
つまり物見に関してし記している。称名寺自体は天正
10年の本能寺の変に際して広瀬兵庫介と称名寺性慶が
長浜城にいた秀吉の妻と彼の母親を保護して深山幽谷
の山道を通り当時の浅井郡甲津原を経由させ美濃坂内
村に落として、秀吉の家族の安全を計っている。さて
天正11年柴田勝家の柳ケ瀬の内中尾山の本陣を視認す
るに利便な山岳は新谷山標高662mが柳ケ瀬集落の東に
位置し内中尾山本陣の様子や動向を遂次監視する場合
には利便の土地である。私は2020年4月新谷山へと歩み
を進めた。現地近くの南約200mには異様な長い土塁が
高さ約180㎝長さ約24.3mに渡り残されていた。軍事的
な土塁ではなく林業に使われた杣道と考えられるのだが?
果して是だけの土木工事が林業の為だけに作られ必要か?
まるで兵員を隠す為に作られた土塁の様に感じられる
この写真の地面のフラットさ!広い平面は伏兵陣地と
私には感じられた。土塁の中に隠れて柳ケ瀬方面へと
北国街道へと銃撃が可能な土手畝や縄手でもあるのだ。
秀吉と言う人は杣人が作る杣土手に見せかけて合戦に
なっだ場合に偽装して備えていた可能性がないだろう
か?秀吉は『長尾新五郎氏文書』の3月27日付け文書
で石川数政に柴田勝家が柳ケ瀬背後の高山に陣取り防御
工事を施して堅固に構えているので急速に是を攻撃する
事ができないから秀吉も是に対して砦を構え長浜に帰っ
た事を記している。また秀吉は毛利輝元に対して4月12
日付けで柳ケ瀬において輝元の書簡を拝読した事を書い
ている。また新谷山標高662m交点には柳ケ瀬を眼下に
おさめる場所に見張番所らしき数段の段築や奇妙な塹壕
が見られる事に驚く。
さらに秀吉は『『長尾新五郎氏文書』『賤ケ岳合戦記』
で3月18日余呉文室山に登って行市山連峰の佐久間軍の
陣営視察を行っている。ところがである文室山の南には
また新谷山と類似した山尾根に杣土手つまり土塁が現実
に残されている事にある。この場所の図面も作成したが
土塁は杣土塁や村境ではなく、砦の様式に作られている。
賤ケ岳合戦の現場では余呉山中各所に塹壕陣地が出現する。
討論者
そんな賤ケ岳合戦の遺構が余呉地域に残されいる
事などはどう考えても納得できません。賤ケ岳が
メインで中心ですよ!歴史を曲解しないで下さい。
長谷川
それは貴方の固定概念です。合戦の勝利者秀吉が
戦功のあった槍9人衆の内7人として自分の勝利
は賤ケ岳七本槍にあると、当時国内に宣言宣伝し
た戦功キャツチ、コピーつまりは宣伝文句こそが
「賤ケ岳七本槍」となり現代社会に定着してしま
ったからです。東京デズニーランドは千葉県浦安
に存在しても東京デズニーランドと言うのと同じ
意味です。賤ケ岳合戦は元来『余呉の庄の戦い』
であり砦の9割が余呉町の中に数多く今でも眠って
ます。砦は当時の合戦のインフラ「歴史的施設」
是を活かして如何に過疎地に光を立てるが課題!
兎に角、本物の古戦場の現場がリアルに残ってる
タイムスリップ感覚にも似た凄い世界が残る事!
長谷川
追記①
※秀吉の樹木伐採伝説や伝説
賤ケ合戦の前年天正10年には既に柴田勝家が
開削して越前と近江の交通利便の確保した新
北国街道の栃ノ木峠に秀吉は樵「きこり」を
派遣して大木を街道に倒させた伝承が残って
おります。この柴田領ともみ言える越前近江
の国境の峠道に巧妙に杣人に大木を伐採させ
ればその大木倒れた位置により勝家の交通を
阻害しかつもし国境で戦闘が発生した場合に
はその横たわった大木の向きや倒れた位置に
よって羽柴秀吉方の防塁の代用となりえる物
といえます。『太閤記』などに見える墨俣砦
一夜城の普請などにも上流で木材を伐採して
長良川に筏として偽装する秀吉一流の築城法
つまりライン流れ作業プレハブ工法の画期を
見る事が出来る。天正18年の小田原城包囲戦
においても石垣山城を完成させ城の前面の木
を極めて急速に伐採する事により石垣山一夜
城が出現したように演出する。大木伐採策戦
が脳裏に浮かびます。織田信長が芹川の河口
である松原内湖で大船を建造した時も信長は
芹川に多賀方面の木々を伐採させ松原に流し
ておりますが真に奇妙な事に芹川上流の来栖
に太閤出世太鼓おどりなる民俗が残っていた
事を聞きます。何故藤吉郎秀吉伝承が来栖に
残ったのか大きな疑問にもなります。文献
資料として参考にできない『武功夜話』でも
秀吉の来栖陣なる文言が見えます。秀吉と山
に暮す生活民「山人」の関係の残影は秀吉の
作った大坂城や伏見城や肥前名護屋城などに
も山里郭が存在し文禄慶長期には太閤秀吉は
諸大名に「物売りの物真似」をさせる野趣あ
ふれるる遊びをしますが、これなども秀吉と
山の民や職人や物売りとの関係の足跡を物語
る一辺かもしれません。また天正11年の秀吉
の発給した文書には北国道を封鎖する総構を
東野山と堂木山の間につくらせますか゛この
防御ラインにはたとへ草刈人夫一名たりとも
通すなと厳命してます。秀吉の言う草刈人夫
とは?非常に意味が深く草刈とは山草刈りの
事や草の者つまり草刈に変装した情報偵察員
を徹底的に取り締まれと言っている訳です。
秀吉は本能寺でも山崎でも賤ケ岳合戦に於い
ても徹底した現場視察を重視する武将です。
長谷川
追記②秀吉の主、織田信長の忍者草の者の記録。